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文系大学院生の研究環境に関するモヤモヤの雑感――まくねがおさんのtweetに寄せて

先日、研究者であり保育者養成校の嘱託講師をしていらっしゃる、まくねがおさん(@makunegao)がTwitterで大学院生の研究環境についてつぶやいておられました。2,500字超え。すぎょい。そこにふわーっとした思い出話をリプしたら、「どんな環境があれば、より良かったか、思うことがあれば、ぜひお聞きしたいです。」とのことだったので、思ったことを書いてみるというのがこの記事の趣旨でございます。要するに長文ツイートへの長文リプライということです。なんで「文系大学院生の……」と文系に限定したかというと、文理や分野でかなり事情が違いそうだからです。文理の区別がもはやあまり意味のない時代になりつつある気もしますが、一応まくねがおさんもわたしも文系なので。

まくねがおさんのtweet全文

長いよ!でもこのうねうねトークがまくねがおさんの魅力なんです!本当は全部読んでほしいですが、どうしても読んでられないという方に向けてわたしがふれるあたりを太字にしておきます。

先ほどまで、オンラインで、ある集まりに参加していた。院生の研究環境を良くするためには何をどうしたらよいのか。アカハラを防止するには。アカハラ被害に遭ってしまった院生へ、何ができるか。以上のようなテーマを話し合う集まりで、メンバーはそれぞれ、様々な思いをもって参加されていた。 ぼくは正直言うと、寂しがり屋で、友人がお誘い下さったんでワーイゆうて尻尾振って参加したのであった…。ぼくは院生時代にD論書き上げられず満期退学した人間なのだけども。正直なぼく自身の本心を言うと、「ぼくの場合は、研究環境が悪かったのではなく、能力がなくてD論書けんかったんや…」と思う気持ちが強くて。いまもこうしてツイッターに生息してるし…。有休の間も研究する、ゆうてほとんどしてませんスンマセン…。単なるADHDなんや…。…ぼくに関しては自己責任、てどうしても思ってしまうんだけども。多動の思い付きだけど、結構な院生が、そう思ってしまうんじゃないかなあ。…今日の集まりに参加して、院生の間って、能力主義を深く深く内面化するよなあ…とつくづく思った。ある方が、「数少ないアカポスをめぐり、アカデミックラダーを登ろうとするとき、研究上で得になりそうな上位の人、権力者へ戦略的に近寄ろうとする力学が働く。それで、いじめに似たような動きも起こる」と発言されていて。ありそう…。問題の根はアカポスの少なさなんだよな…。いかに早く業績を上げるか、学振を取るかが、毎日の生活費に直結し、さらに将来の獲得賃金・地位の安定にも直結するから、必死なんだよな、みんな。自分より先に行く人がいたら、当然嫉妬もする。劣等感を持つ。このモヤモヤの感覚って相当で。このツイートの冒頭で書いた、ぼくの自己責任的な感覚も、蓄積されたモヤモヤから来てる気がしていて。ぼくも院生時代、学振全部ダメだったしなあ…。…他の学振取った人から嫌みのような自慢のような発言があった、というエピソードも語られていたけど、実はぼくはその嫌みなり、自慢なりを言っちゃってる側の人の気持ちも、少しわかる気がしていて。ぼくは一昨年、科研取れて。科研の申請書、通ったんだよ。そしたら、誰かに自慢したくなっちゃったんだよなあ。イヤな話やで…。ぼくが自分は科研通った、って他人に伝えるとき、自慢げな響きがあったんじゃないだろうか、ぼくも。うーん、このツイートもそう…?…問題にしたいのは、このモヤモヤなんだよな。科研通ったって呟くのも自慢げに感じたかもしんないけど、一方でぼくは査読論文を一個も通したことない。今年度は一本も論文を書いてない。ダメ研究者、とホント思ってて…。この追い詰め、劣等感が裏返って自慢げなことを言いたがってる感じがするんですよ、自分。…今日の集まりで、ある方が、「たまたま、偶然恵まれた研究環境で研究をしてきた人は、おそらく、そのようにでしか、院生生活を想像できないだろう。そうした人が業績を上げ、アカポスにつく。研究環境で不利を被った人は、この世界から去っていく。だから、アカポスに残っている人は当事者性がないため、院生の研究環境を改善しよう、という動きは盛り上がらないんじゃないか」という発言をしていて。ぼくも、その通りだろうな、と感じた。…もちろん正確にはわかんない。いまは、多くの院生が、研究環境に恵まれていないのかもしれない。恵まれているかどうかは、あくまでも相対的なものなのかもしれない、とも思う。ただ、最も研究環境の改善を望み、動きたいと感じている(潜在的な?)当事者は、この世界からどんどんいなくなっていく、その構図はあると思う。数でいえば、残るより去る人の方が多いことは間違いないからなあ。…ぼくは杉田さんや西井さんから色んなことを学ばせてもらっていて。ダメ研究者で、アカポスゲットも人とのつながりで得てきたような、研究能力が疑問視される怪しい人間で(一応、公募は正式に受けましたが。ただ、情報を人伝てで得てきた。愛想と愛嬌だけはあるので…)。そんなぼくだけども、とりあえず、言葉になりづらいところを言葉にしようとする、そんなメンズリブ精神で、今後も何かあれこれ考え、発信したり行動したりすることができたらな、とは思っている。この呟きも、なかなか言葉に出来づらいモヤモヤを言葉にしようと思って呟いております。ツイ廃なので自分の呟きをよく読み返す(キモッ)。だから、自分用メモのつもりで、もうちょっとだけ。…どうしたら院生は幸せになれるのか?修論博論・学振・ポスドク・アカポスなどなど、いろんなタイミングでいろんな困難がある。ぼくは今でこそニコニコ人とやりとりするようになってるけど、院生時代はくらーい目してて閉じていて(ポンタぐらむさんご存じじゃないすかね?)、世渡り下手だったので、「助けて」もうまく言えず、それぞれの時期の困難に、ひとりで立ち向かって苦しんでた。世渡り上手じゃなくても、最低限の知識と情報、教育が受けられるような研究環境があってほしい。指導教官や、先輩や、それぞれの研究室で起こる悲喜こもごもは、運の要素が大きくて。しかしたまたま一度ハラスメント的なこと、いじめ的なことに遭ってしまうと、本当に辛いことになる。今日の集まりで、ある方が、「院生生活の独特の空気」を指摘していたけども。ホント、そうなのよね…。不信感塗れになってしまって。悪口言われてるんじゃないか、陰口叩かれてるんじゃないか。研究室にハマれないと、特にこの神経症が強まってしまうんだよね…。この被害は、相当深刻だと思っていて。ダメージ残ると思うんだよ。…うーん、被害、って言葉、強いかな。とにかく、当時の経験を、当時のモヤモヤしていた気持ちも探るようにして、言葉にしておくとよいと思うんだよなあ。嫉妬と蔑視、優越感と劣等感が激しく入り乱れる現場が研究室ではないだろうか…。…言葉にしたから、なんなんだ?と、ぼくが院生だった当時は思うんだろうな。ただ、そこからしか始まらないだよなあ。何が起きてるのか。当事者が、もっともよく知っているけれど、それが言葉になっていないことが、非常に多くて。その探る言葉の蓄積から、何が起きてるかが明らかになっていき、自然に何ができるか、何をすべきかも見えてくると思うので。一見、遠回りに思えるかもだけど、まずは言葉を。いまの本心としては、そんな感じなんだよな。今日の集まりのメンバーの方が、色んな情報提供をしてくれている。それを読んでメモして、今日はおしまいにします。ありがとうございました。

まくねがおさんのtweet、太字は筆者

で、文系大学院生の研究環境について語ろうとするダー子とやらは何者やねん?

と、思われる方が多い気がするのでかるーく自己紹介をしておきます。

東京オリンピックの少し前に某国立大学の文学部の社会学研究室を卒業しました。普通に会社員になるも、ハラスメントやら長時間労働(わたし基準)やらでうつ病になり休職のち退職。もといた研究室に出戻り。ただの居候から研究生(まぁ正規の居候みたいなものです)になり、ついに大学院生になるも、うつ病をこじらせて休学のち退学。よって学位はただの学士のくせに研究室にいた時間はやたら長い。この辺はいつかnoteにまとめようと思っています(いつだろう……。)。

アカハラは噂には聞いたことがある程度。自分は先生にけっこう良くしてもらった思い出が多いです。でも何が「良い」かは人それぞれ違うし、研究室のメンバーから見ればわたしが贔屓されているように感じたこともあったかもしれないな……とちょっと複雑な気持ちでいます。

ようやくまくねがおさんへのリプライ

なんか整理して順序だてて書こうかなとも思ったんですが、「当事者が、もっともよく知っているけれど、それが言葉になっていないことが、非常に多くて。」「一見、遠回りに思えるかもだけど、まずは言葉を。」という、まくねがおさんの言葉を読んで、決めました。わたしもうねうねと、書いていこうと思います。

①院生の研究環境を良くするためには何をどうしたらよいのか

これは無限にありますよね。ただひとつ言うとしたら、研究環境を整える前に「ひととして生きるための環境」を整える必要があるということです。政策や大学の施策を見ていると、そこのところわかってるのかなー、と思うことが多々あります。まぁ労働者に対する政策でもそうなんですが。

②アカハラを防止するには

そもそも、「アカハラ(アカデミック・ハラスメント)」とはなんだという話をしないとですよね。湯川やよいさんというアカハラ問題研究者の定義を引用してみましょう(論文は「あとがき」で紹介しています)。

「アカデミック・ハラスメント」という言葉は、現在日本国内では「研究・教育機関における権力を利用した嫌がらせ」と広く理解され、 一般的に、大学での性的言動(セクシュアル・ハラスメント)以外の不快な言動全般を示す用語として用いられている。

湯川やよい,2011

「嫌がらせ」「不快な言動」というのが鍵で、「不快な言動の受け手である学生の主観」や、「学生がハラスメントと認識するかどうか」がポイントとなってくるわけです。湯川やよいさんは「日常に埋め込まれた諸文脈の累積により学生の教員への信頼が失われ、その結果初めて学生にとって不快で不当な『ハラスメント被害』が構築される」とも指摘しています。

「信頼」ってほんとうに難しいものだと思うんですよ。「感じ方」が関わってくるので、アカハラ自体はなくならないんじゃないかなとわたしは思っています。だから、できることは「アカハラ」以外の解決できる問題を片っ端から解決することなのではないかと思うのです。湯川さんの論文では、研究不正や学位認定の不正が疑われる事案を「アカハラ」の例として挙げる大学院生の語りが登場します。このような事案をひとつひとつきちんと問題として取り上げ、対処していくことが必要だと思うのです。

注:このことは、特定の問題について「アカハラだ」と感じる人の認識について、「それは間違っている」と指摘するものではありません。また、湯川さんが用いた「ライフストーリー」という手法は、調査対象者(インタビュイー)の主観に着目するものであり、このアプローチは極めて重要なものであると考えています。

③アカハラ被害に遭ってしまった院生へ、何ができるか

専門家でもなんでもないので素人考えにはなりますが、心理的ケア、環境調整、補償の3つが主軸になると考えています。「信頼できなくなった」という被害経験からの回復と、不当な扱いに対する補償が必要だ、という考えです。

④能力主義を深く深く内面化する

これはねー、あると思いますよ。評価評価の連続ですし。業績(論文)は、連名で出すこともありますが、それも貢献度(どうやって決めるのだ?)に応じて名前の順序が決まっていて、あくまでも個人の貢献度がわかるという建前なわけで。全部能力によって決まることになっている。そりゃ内面化しますよね。わたしも、単位取らなきゃ、論文書かなきゃ……って自分を追い込んでいましたもの。めっちゃわかる。なんか目に見えない力が働いているんじゃないかというくらい。
論文を書く能力が高いかどうかだけで判断される……というと、シンプルに見えるかもしれませんが、学会で研究者と知り合いになって共著論文を書くとか、研究室の後輩を指導しながら共著論文を書くとか、人間関係に左右されることも多々あります。そして、一瞬でも先に同じアイデアで他人に論文を出されてしまったら積み重ねた研究がパーになってしまうという運要素も持ち合わせているという印象。

⑤「問題の根はアカポスの少なさ」?

これはわたしはちょっと違うと思いました。研究発展や高等教育の充実のために、大学教員は多い方がいいとたしかにわたしも思います。ただ、問題の根をアカポスの少なさに求めてしまうのは、「サッカーの日本代表が11人なのは少なすぎる!だからサッカーを本気でやりたい人が病んじゃうのだ!」という主張に近いと思うんですよ。その人が研究でやってきたことの積み重ねが、「業績(=論文)」という形でしか評価されないこと、大学教員になることでしかいかせないことに問題があるんじゃないかな、と思っています。もっと多様な承認のされ方があったらいいのにな。企業で研究を続ける選択肢とか。

⑥権力者へ戦略的に近寄ろうとする力学

権力者というと、イメージがあまりつかない方もいると思いますが、①教員採用の決定権をもっている人、②裁量のある研究費をもっている人、が代表的な例になるでしょう。正直わたしはこの生々しい権力争いにふれたことはありません。ただ、ある研究者が「論争したことのある先生なのに、よく自分のことを採用してくれたよな……」と、某先生のことを評していたのを聞いたことがあるので、必ずしも実力(論文を書く能力)のみで採用が決まるわけでもなさそうだ、というのは感じますね。

⑦いかに早く業績を上げるか、学振を取るかが、毎日の生活費に直結し、さらに将来の獲得賃金・地位の安定にも直結する

能力を高めることで、将来の獲得賃金や地位の安定につながるのは、研究者も労働者も同じだと思うんですね。じゃあ研究者ばかりがなぜここまで業績と生活費の獲得にヒイヒイ言うかといったら、「最低賃金」という概念がないからだと思うんです。研究という行為が労働か、という問題は議論になるところかと思いますが、「なんかしてれば(もちろん最低限の要求水準があるわけですが)給料が出る」というのは生活費を維持するために必要なことですよね。「修士・博士課程をどのようなものとしてデザインするか」はひとつの論点だと思います。就労以前の教育機関であり、親の援助を中心として行われるべきとするのか、研究機関であり、研究という知的労働に従事しているから給与が発生するべきととらえるのか。
あとわたしは、「もしベーシックインカムがあったら?」という想像もします。ここを掘り下げるには、わたしの知識も紙面(?web記事だけど)も足りないのでやめておきますが。

⑧自己責任的な感覚

いちばんは、「(選ぼうと思えば民間企業や公務員も選べたのに、あえて厳しい)研究者の道を選んだのでしょう?」という感覚を内面化していることが挙げられると思います。
もうひとつは、能力主義・能力についての価値観との関連です。「能力」は個人が持っているものとして捉えられることが多いので。でも本当は、環境や他者との関わりの中で新しい知見は生まれるものであって、新しい知見というのは個人の財産ではないんですよね。

⑨科研の申請書が通ったら、誰かに自慢したくなっちゃった

わたしはこれ、ある程度なら自慢していいんじゃないかと思ったんですよ。これまでの研究業績とこれからの研究計画が、審査者に認められたということですよね?この、「これまでの研究業績とこれからの研究計画が、審査者に認められた」ということからはみ出なければ、自慢を受け取る側もそれ以上のことを見出さなければ、「がんばってきてよかった!」「がんばってきたことが認められたんだね」でおしまいだと思うのです。
ただ、それ以上の意味を見出して、過剰な自慢になったり、僻み?になったりしてしまうのは、科研費をとらないと研究継続が難しいという研究環境の問題だとわたしは思います。これを自慢する人・僻んでしまう人、というように個人の性格の問題に帰してしまいたくありません。

⑩指導教官や、先輩や、それぞれの研究室で起こる悲喜こもごもは、運の要素が大きくて

悲喜こもごもについて運の要素が大きくなってしまうのは、指導のあり方が徒弟制かつ属人的になっているからだと思うんですよね。
できれば指導教員は複数指導制にしたほうがいいと思いますし、研究指導のノウハウが暗黙知でなく教員や大学院生(先輩、にあたる人ですね)に広く共有されている状態が望ましいと思います。

⑪嫉妬と蔑視、優越感と劣等感が激しく入り乱れる現場が研究室

ある観点で見れば、嫉妬することもある。蔑視はたしかによくない気もするけど、そういうこともある。優越感と劣等感は、そりゃある観点から見れば生まれることもある。わたしはそう思っています。だから問題になるのは、「研究能力」とか「業績」といったたしかなようで不確かなものが、まるで全人格の評価につながっているかのように思えてしまうことなのではないかと思います。

まとめ

①研究環境を整える前に「ひととして生きるための環境」を
②「研究能力」は、あやふやなものであるし、ひとがもつたくさんの側面のひとつでしかない
③個人の問題としてではなく、構造・環境の問題としてとらえるべき

が、わたしの主張になると思います。

あとがき

なぜこんな長文リプライを書こうかと思ったかというと、「最も研究環境の改善を望み、動きたいと感じている(潜在的な?)当事者は、この世界からどんどんいなくなっていく」という指摘にハッとしたからです。わたしの場合はやめた理由がかなり特殊だったので、どこまで環境要因ととらえるかは今も迷いがあるところですが、わたしも「いなくなった当事者」なのではないかと。

アカハラのリアルを知りたい方は、ちょっと古い論文にはなりますが、文中にも登場した、湯川やよいさんの「アカデミック・ハラスメントの形成過程――医療系女性大学院生のライフストーリーから」という論文を読んでみることをお勧めします。

今回のnoteで扱っている「能力」観――能力は個人のものではない、とか、新しい知見は他者との関わりの中で生まれてくるので個人の財産ではない、とかは、最近読んだ、鈴木宏昭さんの『私たちはどう学んでいるのか――創発から見る認知の変化』という本にかなり影響を受けています。わたしは今回文脈に合わせて「能力」という言葉を使いましたが、鈴木さんは本の第1章で「能力」という言葉を否定します。わたしも「能力」というものに対する見方がかなり変わったので、「能力」という言葉にモヤモヤする人にぜひ読んでみていただけたらと思います。紹介しているtweetを載せておきます。

最後まで読んでいただきありがとうございました!!

23/05/14追記:まくねがおさんからお返事がありました

「任期」という、わたしには抜け落ちていた視点を指摘してくださいました。こうしてうねうね対話を続けることで、モヤモヤの全体像が見えてくるといいな。

文系大学院生の研究環境に関するモヤモヤの雑感 …読みました。ありがとうございます! また後日読み直したいですが、とりあえず。アカポスの少なさが問題の根幹じゃね?と確かに思っていたのですが、記事の中でのサッカーの例を読み「まあ、確かに…」とは思いました…。…うーん。アカポスの少なさ、ってざっくり以前は呟きましたけども。なんか、もうちょっと言葉を足したいなあ…。ぼくも以前期限付きで非常勤研究職してましたし。あと、いまも任期付きなんですけども。若い世代が、こうやって任期を区切られていっている、と。なんかそのへんが、焦りや、嫉妬やなんかの根っこになっておるのではないか、と。アカポスの少なさ、というか、安定的なアカポスの少なさ、と言いますか。…そりゃあ、サッカーだって競争主義で。別に安定なんかしてないですよね。だから、サッカーがいいなら研究者もそれでいいんじゃないか、みたいなことなのかしら。うーん、どうなんだろう…。…昔の研究環境と比較しちゃうんですよね。昔はそんなに期限付きばっかりじゃなかったでしょ、て。期限付きが増えると、無期と期限付きの間に分断線が引かれるよね、と。だから、あれなのかな、サッカー選手も無期の選手とか出てきたら、嫉妬と蔑視がより入り混じる状況になるのかしら。よくわかんないです。…まあでもとにかく、難しいですねえ、こういうの。それぞれ、何が苦しかったか、やっぱり違うんすよね。言葉にしていただいて、あらためて強く思いました。ぼくももうちょっと、言葉にしたいなあ。書くの、大変でしたよね。凄いと思います。ホントに。ぼくも色々思うけど、何をどこまで書いたら良いか、わかんなくなるもんなあ。整理されてないんですよね、色々なことが。やっぱり何度も出すしかねえんだよなあ。書く前に対話したい。互いに言いっぱなし聞きっぱなししたい。しまくりたい。その時間がないんだよなあ…。ちくしょー。…と、とりあえず投げっぱなしうねうねツイート。六月や、六月になれば、少しゆとりが…。

まくねがおさんのtweet










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