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Ⅰ 三河支配の成立 #1 三河松平氏と竹千代(2)

清康の活躍

 永正8年(1511年)に安城家4代・松平氏の第7代となる清康が誕生した。
 清康は大永3年(1523年)、数え年13歳の時に父・信忠から家督を受け継いだ。
 翌年(1524年、14歳)には、岡崎松平氏の信貞のぶさだを攻め、山中城を乗っ取るとともに、岡崎城も明け渡させた。

旧岡崎城と山中城の位置関係

岡崎城は前代からの明大寺の城であったが、清康は安城から岡崎へと本拠を移し、岡崎家の旧領や家臣を吸収するとともに、西三河の経済の中心地である矢作東宿やはぎとうじゅくを取り込んだことにより、安城家の勢威は飛躍的に増大したといわれている。

矢作宿

 さらに、享禄3年(1530年、19歳)には竜頭山の現城址の地に新たに岡崎城を築き、これを本城としたのであった。
 これと併行して、享禄2年(1529年、18歳)から翌年にかけては、小島城(西尾市小島町)をはじめ、東三河の宇利城・吉田城(豊橋市)などを攻略した。田原城(田原市)の戸田氏は戦わずして帰服したといわれている。

山間部の奥平・菅沼・設楽・西郷らの諸氏も次々に帰服して、三河一国はほぼ清康の支配下に置かれることとなった。

 他方で、清康のこの間の事績として、城下町整備との関わりで安城や明大寺からの寺社の移転や新造を行っている。菩提寺である大樹寺の造営も行われ、天文2年(1533年、清康19歳)には本堂や山門が完成したという。同年11月には、「松平次郎三郎源清康」と署名した3カ条の制札を下している。

 また、同年11月1日付の後奈良天皇綸旨りんじ(天皇の仰せを受けて大蔵所から出した文書)によって、大樹寺は勅願所(鎮護国家・玉体安穏などを祈願する神社。天皇の祈願所。)となり、現在山門に掲げられている寺号の勅額も下された。
 さらに、2年後には多宝塔も建立されたが、その真柱銘文に「逆修(生きているうちに自分のための仏事をして冥福(めいふく)を祈ること。)のおんために万疋奉加(大金を治めること)、大檀那おおだんな(布施をたくさん出す檀家)世良田次郎三郎清康、安城4代岡崎殿」とあり、世良田姓の使用と安城家4代としているところが注目される。

 天文4年(1535年、清康24歳)12月、清康は軍勢を率いて尾張守山に着陣した。攻撃の対象を尾張で台頭してきた織田信秀、平野氏は守山城主で桜井家の松平信定とされている。
 出陣に先立って、清康が甲斐の武田信虎、美濃三人衆、尾張犬山城主で織田信秀の弟・信光らと、かなり大がかりな連携を取っていたと言われていることからすれば、織田信秀と見る方が良いだろう。

 ところが、12月5日の早朝、老臣阿部大蔵定吉あべおおくらさだよしの子息弥七郎が、陣中で暴れ馬を取り押さえようとした騒ぎを父が成敗されたと思い込み、清康を背後から刺し殺す、という事件が起きた。
 弥七郎は前夜、父から「松平信定らに内通しているとの流言のため、処罰されるかもしれない」と聞かされていたからである。
 弥七郎はその場で植村新六郎によって討たれたが、この悲劇を「守山崩れ」という。

 大久保忠教は『三河物語』で、「清康、30歳までも御命永らえさせ給うならば、天下は容易く治めさせ給わんに、25を超えさせられ給わで、御遠行あるこそ無念なり」と、清康の不慮の早世を嘆いている。

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