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Ⅰ 三河支配の成立 #1 三河松平氏と竹千代(5)

小豆坂の合戦

 この機に乗じて、1547年、先に追放されていた山崎城(安城市)の松平信孝(清康氏の弟)が岡崎城を目指した。広忠方は矢作川を渡って、渡河原(岡崎市渡町)で迎撃したが、敗れてしまった。しかし、信孝がそれ以上は追撃しなかったため、広忠はかろうじて退却することができた。
 なお、この渡河原合戦以前のことと言われているが、上和田城(岡崎市上和田町)の松平忠倫は広忠が放った刺客によって暗殺された。

松平家内も統治がかなり不安定なことが分かる場面。通常であれば、そのまま滅亡の一途を辿るような展開。
しかし、そうはならなかったのが、不思議なところ。

やはり、天はいるのかと感じさせられる。

 天文17年(1548年)3月19日、小豆坂の合戦(岡崎市羽根町)があった。この合戦に至るきっかけが今川方にあったのか、織田方にあったのかについては、諸書によって見方が分かれている。
 今川方が安城城を奪還しようとして進撃してきたか、
 織田方が岡崎城を攻略しようとして軍を起こしたか。

 ここでは、西三河が不安定であるという当時の状況や出撃してきた今川方の備えからして、今川方が安城城を奪還しようとしてきたという見方をとる。
 今川義元は3月13日、太原雪斎を総大将とし、数千といわれる大軍を三河に派遣した。
 これを知った織田信秀は清州城から出陣し、17日に安城城、18日に上和田城に入った。
 今川軍も18日には藤川(岡崎市藤川町)にいたり、広忠も岡崎城を出てこれに会した。そして19日に両軍は小豆坂で激突したのであった。

 未明に藤川と上和田から出撃した両軍はいずれも敵方の動きを察知していなかったようで、「三河物語」によると、鉢合わせの遭遇戦になったため、お互いに動転したと言っている。
 一進一退の攻防戦が繰り返され、今川方がやや優勢のうちに両軍とも兵を退いたのであった。信秀は子息信広を安城城の守将とし、清州城へ引き上げていった。

 「松平記」によれば、すぐその後の4月15日に先に渡河原の戦いで勝利を収めた松平信孝が、今度は岡崎城を攻めるために明大寺へと押し出してきた。
 岡崎勢は耳取(岡崎市明大寺町)辺りで信孝勢を挟撃し、信孝を討ち取ってしまった。これを耳取縄手の戦いという。

松平広忠も負けてはいなかった。勢いづいた松平信孝を返り討ちにし、信孝を討ち取ることに成功した。

この時、家康は6歳で既に織田信秀の元にある。

一説によると、本来家康は今川氏の人質になるべきところを織田方に奪われてしまった。その報復のために安城城を攻めて織田勢の人質を確保し、家康との交換を狙った、という考え方がある。

そのため、今川家きっての智将・太原雪斎を筆頭に攻め立てた、という見方。

三河の統治は、今川家にとっても念願であるため、その国主である松平家の嫡男は確実に今川の元で教育し、統治をさせることを念頭に置いていたであろうから、今川家も焦ったことに違いない。

そういった大人の事情が絡んでの合戦だったのだろうと私も思う。

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