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信長公記(26)丹羽兵蔵の手柄

 (永禄2年(1559年))、信長公は、お伴の衆80名を連れ、上京京都・奈良・堺を見物して、足利義輝殿にご挨拶

 皆色々と装いをこらし、大のし付きの太刀(10参照)の小尻に車を付け、またお伴の衆もみなのし付きの太刀を着用した。

 清州の那古野弥五郎(清州織田家・織田信友の人間。あの坂井親子、河尻、織田三位がいたところ。那古野氏は信長公と裏で通じていた)の家来に丹羽兵蔵という機転の利く者がいた。
 (丹羽氏が)都へ上られた折、5,6人の者を頭として、合わせて30人ほどの者が上洛するのに行き会った。

 志那(草津)の渡しで、彼らが乗った船に同船した。
「どこの者か」と尋ねられ、丹羽氏は「(偽って)三河の国の者です。尾張国を通った時、国の者たちが信長公に恐れかしこまっている様子を見て、こちらも心配しながらやってまいりました。」と言うと、「信長殿の利運も間もなく尽きよう」という。

 (丹羽氏は)怪しい様子を不審に思い、気を付けて、彼らが泊まる家の近くに宿をとり、そこで利発そうな子どもと近づきになった。

 兵蔵が「京都に湯に入りに来られた方ですか、どなたです」と尋ねると、その子供は、兵蔵が「三河の国の者である」というのに心を許して、「あの人たちは入湯ではありません。美濃国から大事な使命を受け、信長公の討っ手として京へ上られたところです。」という。

討っ手の名は、小池吉内・平美作へいのみまさか・近松田面たのも・宮川八右衛門・野木治左衛門である。

 夜は伴の衆に紛れ、近づいて様子を見ると、「義輝公の決心がつき、宿の者に仰せつけられれば、(信長公を)鉄砲で撃ち殺したとしても、何の差し障りもあるまい」と言っていた。

 彼らは、二条蛸薬師付近で宿を取った。

 夜中だったので、兵蔵はその家の門柱の左右に、木を削って、目印とし、信長公の宿を尋ねると、室町通の上京の裏辻にある、とのこと。
 門をたたくと、門番がいる。「田舎から、お使いに上京した。火急の用事だから金森(長近)か蜂屋(頼隆)にお目にかかりたい」と申し出ると、両人が兵蔵と対面した。

 兵蔵は、両人に暗殺集団のことを報告すると、そのことを信長公に報告、信長公は丹羽兵蔵を呼び寄せた。

(信長公)「宿を見ておいたか」
(兵蔵)「二条蛸薬師の宿にいます。家の門口に木を削って、目印としてきたので、見間違いはありません。」
(夜が明け…)
(信長公)「美濃衆は、金森が見知りの者だから、早朝その家へ行ってみよ」
と指示を出す。

 金森は兵蔵を連れ、暗殺集団の宿の浦屋へ入った。みなに会い、「夕べ、あなた方が上洛したことは信長公も既に知っている。だからここへ来た。信長公へ挨拶をせよ」と金森が暗殺集団(美濃衆)に向かって言い放った。
 美濃衆は「信長公が知っている」と聞いて一同顔を青ざめ、この上なく仰天した。

 翌日、暗殺集団(美濃衆)は小川表(細川晴元邸)へ参った。信長も立売(京都上京区)から小川表を見物に出かけた。そこで暗殺集団(美濃衆)と対面した。

(信長公)「お前たち、俺を討つために上洛したそうだな。未熟者の分際で、この私を狙うとは、『蟷螂とうろうの斧』(弱い者が自分の力も分からずに強敵に向かうことの例え)というものよ。ふん、ここで勝負するか?」

というと、暗殺集団(美濃衆)は困惑した。京都の人たちは、このことを褒めたりけなしたり、賛否両論だった。

 4,5日過ぎてから信長公は守山までお下りになり、その翌日は雨降りだったが、宿を発って、相谷から八風はっぷ峠を越え、清州までの27里(約130km)を踏破。その日の午前4時頃に清州へ着いた。

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