俳句と川柳の区別がつかない
縁あって、小学生向けの国語の問題集を読む機会を得ました。小学生向けに俳句と川柳の違いを説明する時、どう説明するかはちょっと興味があります。手元のにある出口汪『出口式 はじめての論理国語 小6レベル』(水王舎)を見ていくと、俳句も川柳も「五・七・五(十七音)」で、俳句は「季語を用いており、自然を扱ったものが多い」、川柳は「季語がなくてもよく、人事を扱ったものが多い」と説明されています。
なるほど、わかりやすいけれども、俳句と川柳を分けるものとして(国語が苦手な子向けに)教育的に説明することはとても難しいことがわかります。俳句と川柳がこういうものだと割り切った基準はないんですよね。
では、目先を変えて、実作者向けの説明としてどのように説明されているのか。ウェブページを検索すると、八木健氏の記述が見つかりやすく、分かりやすかったです。八木氏は以下の要素について俳句と川柳の差異をコメントしています。
季語の有無
切れ字の有無
文語体と口語体
自然と人事
境界はあいまい
(参照)
俳句と川柳の違い・俳句の作り方/日本俳句研究会
https://jphaiku.jp/how/senn.html
詳述が必要なので、上掲の要素を詳しく見ていきます。(以下、引用者のまとめ)
季語……俳句は季語を置くことを好むけれども、川柳は必ずしも置く必要はない。
切字……俳句は切字を置くけれども川柳は置かない。
文体……俳句は文語体を好む(切字を見てもわかる)けど、川柳は口語体を好む。
モチーフ……俳句は自然を詠むことが多いけど、川柳は人事を詠むことが多い。
境界……俳句と川柳は俳諧連歌を同祖としてそれぞれ独立した文芸で、五七五で詠むから、区別がつきにくい。
ここでも、手がかりはあるけれども、明確な区分はありません。
興味のある方は、他にも、復本一郎『俳句と川柳』(講談社)に俳句と川柳を分けるポイントの記述があります(本稿では省略します)。
最近、新聞川柳を読んだ時に気付いたのですが、俳句と川柳の区別が余計に難しくなっています。よみうり時事川柳と讀賣俳壇から、似たような修辞を使った川柳と俳句を引用します。
(1) と(2) の区別は付きましたか。先に答えを書くと、(1)が川柳で(2)が俳句です。
では、俳句と川柳を分けるポイントをそれぞれの要素から探してみましょう。
まず、季語を見ていくと、季語は(1) が「戻り梅雨」、(2) が「帰省」です。両方とも季語を使っています。季語の有無で区別することは難しい。
続いて、両句から切字を探してみましょう。
いずれも、助詞「て」が軽い切れを出しているようです。「切れ」は、夏井いつきさんの説明がわかりやすく、カットが切り替わる効果を持たせます。「て」は切字としては弱く、場面は変わっていても、一続きの光景のような印象を与えます。どちらも切字か切字でないかは言い難く、切字では区別が付かないです。
続いて、文体の口語体、文語体の区別は、この情報だけではつきません。どちらも口語でも文語でもあり得る文体です。
最後にモチーフです。季語以外の文を見ていくと、「列島を慟哭させて」は人事のフレーズで、「村の大きな木と話す」は自然のフレーズに分けられます。ここに俳句と川柳の違いがあるようです。
この二句の分類は、「人事」か「自然」かで区別がつきました。しかし、例句の川柳は、俳句の季語の使い方に似ていて、季語に作品のテーマの根幹となる感情を語らせています。これが余計に分類を難しくしています。この句が柳壇に入選するということは、川柳を勉強する人は、季語についての知識を持っておかなければいけないのかもしれません。
検証では省略したけれども、詞章が惹起する感情が季語から発せられたら俳句で、季語以外のフレーズから発せられたら川柳という分類もできるかもしれません。(2) の大きな木との会話の内容は書かれていませんが、会話の感情は「帰省」から想像することができます。例えば、再会を喜ぶとか、近況を話すとか……。(1) はフレーズが「悲しい」で季語も「悲しい」で人も天も悲しいという感情が伝わってきます。(1) での季語の効用は「悲しい」の範囲を定義したものであり、感情を表してはいるけど、読者に感情を惹起するのは季語ではなく、フレーズの方です。季語以外の感情の方が強いことが、(1) が俳句ではないような印象を与えます。
この分類法を実験してみます。前述の小学生向けの教材の問題に<寝ていても団扇の動く親ごころ>という川柳が載っています。「団扇」という季語はありますが、読者に喚起させる感情は「親ごころ」に込められています。したがって、これは川柳だということが言えそうです。
俳句と川柳を分けるためには、季語や切字を学びつつ、詞章のフレーズでどの言葉が一番心を打つかを多くの句を読んで理解することが、俳句と川柳を分類する練習にはいいのかもしれません。いつものことながら独自研究で権威的な説じゃないので、ご利用は計画的に。ナンダカワカラン。
しかし、小学生は大変ですね。季語のような知識は学べるけど、どのフレーズが一番感情を引き出すかを学ぶことは難しいです。感性は自分の持っているものを引き出すしかないので、自分の中にしかないものを学んだことを測るものとして点数化されても困りますよね。
おまけ
おまけとして、学校教育で使われそうな「現代俳句」の名句が本当に「俳句」と分類できるのか、検証します。
池田句。小さい子は「じゃんけんで負けて」に引っ張られて、そこが情緒の核となると考える子が多いと思います。「じゃんけんで負けて」は詩の言葉としては、蛍に付随する付属的な要素なのですが、小さい子はそこにとらわれて、蛍の命の悲しさを読むことは難しいと思います。掲句の狙いは、螢の生涯が人間の観察からは尻尾が明滅するだけの存在と思われる「寂しさ」にあると思います。
金子句は、一番強調すべきところは螢でしょう。狼は冬、蛍は夏の季語とされていますが、どちらかを、僕の読感では螢を、特に強調することで、季重なりの情緒の混乱を解決しています。単に季重なりと読むのではなく、どちらが主なモチーフなのかを読むことで、季重なりの問題を解決することができます。狼にクローズアップしても蛍にクローズアップしても、結局季節の言葉が一番感情を惹起させます。となると、それが俳句になるという見立てです。
どちらも、軽い争いはありますが、季語が感情の主役になっているようです。そういう句でないと、俳句を代表できないのでしょう。
では、さらにおまけで、無季自由律俳句を見ていきましょう。有名な句を見ていきます。
無季自由律俳句を読むとなると、「現代俳句」とはまた違う読み方がありそうですが、山頭火句を見ると、季語の次の優先順位は人事か自然かということになるのでしょうか。青い山が主題で俳句らしさを担保しています。放哉句に至っては人事句ですが、俯瞰的なところが、情緒過剰でなく俳句らしさを得ているように思います。放哉句に関しては、本編の分類の仕方に全く則っていないです。なので、放哉句は本編の分類では例外的な扱いになりそうです。時事川柳のように他人のために怒れるより、自身の境遇をうたっているので、俳句でない、しかし川柳でないというような章立てが必要になります。放哉句は、例えば「発句」として「つかみ」があるみたいな別の論理を立てなければ、俳句を主張できないようです。「文芸川柳」のところで書いたような気がしますが、「文芸」の構成要素は「つかみ」(発句)、「主題」、「落とし」(挙句)だったかな。放哉句が国語嫌いな子に刺さるのは、句が「文芸」としての要件を持っていて、それが短い詞章で完結しているからなのかもしれません。まどろっこしい前置きもなく、短い言葉で完結するのが良いという受容側の都合がありそうです。
というわけで、自由律の話で話が発展しそうですが、例外処理についてのお話は以上とします。
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