俳枕の理解を深める:俳句の描く「不思議な街」渋谷

 渋谷という街は、僕にとっては、馴染みがないことはなく、しかし、あまり理解が深くはない街です。渋谷がどのような街なのか、インターネットで渋谷を詠んだ俳句をいくつか見つけましたので、例句を掲げて、鑑賞をしていきながら考えてみようという試みです。

  浅漬を提げて渋谷の夕月夜  久米正雄

 おそらくは、大正〜昭和前期の時代でしょうか。当時からすでにターミナル駅としての渋谷があり、賑やかさはあるけれども、まだ大量消費が進んでいないようで、のんびりとした時間を感じ取れます。

  馬多き渋谷の師走吾子と佇つ  中村草田男

 現代でも自動車でいっぱいの渋谷の街ですが、馬が道を走っているので、これも大正〜昭和前期の時代を想像します。歳末の賑やかさは今も昔も変わらないと思いつつ、人間の意思以外に馬の意思も働いているので、今ほど人にコントロールされきっていない街ののんびりとした空気があります。

  渋谷てふ不思議な街の青蜜柑  皆吉司 

 一転、昭和後期〜平成初期の渋谷でしょうか。掲句から街の様子を想像すると、自然が残りながら、消費都市としての側面を持つなど複雑な文脈を持っている街という想像をします。当時の渋谷は青蜜柑が目立つ街だったのですね。 

 万緑の渋谷ガングロ少女ゐて  保坂加津夫

 1990年代に流行したセンター街のガングロギャルが句に出てきます。「ガングロ少女」の取り合わせに「万緑」が出てくるところが、夏の自然と文化の混ざった当時の渋谷の感覚を今に伝えます。

  大試験済みて渋谷へ原宿へ  細川知子

 平成後期の作。掲句では、自然の風景は描写されておらず、大試験を受ける少年少女が気晴らしをする楽しい街という側面としてしか、渋谷も原宿も記述されていません。季語の斡旋ひとつで、街の印象ががらりと変わりました。

  初雪や渋谷交叉のスマホの子  岡山敦子

 平成後期の作。スクランブル交差点あたりでしょうか。掲句でも、渋谷の街に描写する自然はなく、街を歩く子はただただスマホを眺めている。初雪だけがおしゃべりで、対比として描かれる渋谷の街は沈黙の街になっている様子がうかがえます。

 6句並べて鑑賞してみましたが、それぞれの渋谷観に特徴があります。今見ていった中では、「ゆるやかな都会→→自然と消費の共存→子どもたちの消費の街」と都市感覚が変遷しているようです。この間のハロウィンの時に渋谷を垣間見しましたが、パンデミック前より殺伐としていましたが、平成後期と街の内容は変わってない印象です。世論には、公園を資本化したことで都市機能について疑義が出されたりすることはありますが、遊びに行く感覚としては、上掲句のような、スマホ片手に買い物を楽しむだけの街というのが平均的な感覚ではないかと思われます。平成初期の自然感覚は、俳句ならではの描写です。その点、新鮮に感じました。
 渋谷の魅力は「不思議な街」という形容詞がその象徴で、記憶の中の拙い昭和史、平成史を手繰ると、建築、自然、消費文化などの都市構想が成功も失敗も含めて混沌を起こし、ものすごいエネルギーを生んでいたのかと想像します。この「不思議」をもう少し解像度を高く言語化した時、都市構想のヒントが生まれるのかもしれません。

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