無季俳句からの反証と再検討〜無季俳句と川柳を区別したい(2)

  号泣やたくさん息を吸ってから  池田澄子

切字分解
号泣や/たくさん息を吸ってから

季語……号泣(無季・人間の部)

 事件です。無季俳句と川柳の分類、上手くいっていたけれども、感情を詠む無季俳句が見つかりました。無季俳句の「人間」の部では、人間の感情を網羅しています。「人間」の部で感情を表す季語は、愛、恋、心、怒り、悲しい、愁い、寂しい、幸福、不安などなど。となると、無季俳句が感情を詠んだ場合の新たな基軸を作らないといけません。
 まず、描かれた心が主観的か客観的かという検討はどうでしょうか。

  列島を慟哭させて走り梅雨

 という川柳と比較した時、慟哭も無季の季語です。そして、感情を慟哭と客観的に描いていて、主観的と判断するわかりやすい根拠は見当たりません。
 では、ちょっと目先を変えて、悲しみの感情にのめり込んでいる(ように煽る)か、感情を観察しているかという分け方はどうでしょうか。つまり、受け手の心が体験的か共感的かということです。もっと言えば、読者が作者の視点に乗り移る時に、作者そのものになるか(憑依)、読者としての意識を残したまま乗り移る(エンパシー/強い共感)か。
 なんとなく良さそうですので、これで考察を進めましょう。まず、

  どんな日になるのか靴の紐が切れ

 という川柳と比較してみましょう。「靴の紐が切れ」の迷信から「どんな日になるのか」という不安を提示して、仄めかされます。読み込むほどに、読者が作者の提示した不安の感情に対して読者が追体験できるように作られています。そして、気がつけば、作者と同じ目線に立って不安に駆られます。
 冒頭の無季俳句は、何について号泣しているかということについて、明らかになっていません。読者は読者の体験を引用して、作者の提示した行動のみに共感しています。ここまでは川柳と同じですが、「号泣」の情緒が、気がつけば映画を見ているような共感性になっています。作者の姿は見ているけれども、作者そのものにはなっていない。読者には読者としての意識があります。ここを川柳との違いと考えます。
 「列島を〜」句は、「国中が悲しみに包まれている」ことの追体験を煽る時事川柳であると考えられます。掲句の「慟哭」には、共感性より体験性を強く覚えます。つまり、「みんな同じ感情だよなあ」と煽っています。
 川柳は、川柳の三大要素である「軽み」によって、読者が作者の提示した感情を追体験することが可能となります。それ以上の強い体験は、「重く」なってしまい、川柳として好まれなくなります。「軽み」は追体験を促すものであるとしたら、川柳の持つ体験的な共感性を「過剰な心」と形容するのも頷けます。川柳を重く作ったら、「お前も俺と同じになれ」と読者に強く迫っているとも取れますし。
 前に試論した、スゴいとオモロいの違いにも通じそうです。オモロいは作者に憑依する、スゴいは作者との距離を置いて評価する視点からの感想と言えば、辻褄は合いそうです。
 とりあえず、良さそうな感じに落ち着きましたが、プロセスが複雑になってしまいました。

 ① 情緒語を抜き出して、季節の言葉に最も強い情緒を覚えたら、有季俳句。
 ② 情緒語が物であるか人の心か検討して、物を詠んでいたら無季俳句。
 ③ 情緒語の感情に憑依できれば川柳、できなければ無季俳句。

 今のところ、こんな感じです。パッチ当てがすごいことになっています。

(参照文献)

・『現代俳句歳時記 無季」(2004 学研)
・2022年7月18日付「読売新聞」朝刊
・樋口由紀子『金曜日の川柳』(2020 左右社)

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