かってに切字論

 切字(切れ)というと、「や」「かな」「けり」に代表される俳句の構成要素のような修辞法です。敬遠する作者もいるようですが、光景を強調させたり、季語を目立たせるために用いたりする効果があります。
 とりあえず、適当に例句でも作っておきますか。

  夏果や自転車の主戻り得ず
  夏果に自転車の主戻り得ず

 「や」で切ると、上五(夏果)と中七以降(自転車の主戻り得ず)はそれぞれ別の光景であるように頭に描き出されます。そして、「夏果」という季語を強調させて、季語の情緒を深く味わうことができます。一方、「に」と切らないで「自転車の主」に修飾すると、「夏果」に「戻り得ず」というフレーズの時間を説明する効果がありそうです。プレバト的に言えば、カットの切り替えがあるかないかと説明されますが、助詞の選択一つで大きく句の光景が変わっていくことが分かると思います。
 切字を古くさいという先生もいますが、初心者はとにかく切りなさいと教える先生もいます。自分がどういう好みを持っているかは、この句が好き、という句に出逢わないとわからないので、まずは読んでみることです。例句もいくつか作ったので、こっちの方がわかりやすい、こっちがいいなどと直感に従うのもいいでしょう。
 また、切字への理解は、前回書いた俳句と川柳を区別する際に試した、どの言葉が一番詞章として情緒を味わえるかというチェックにも繋がります。藤田湘子(『20週俳句入門』KADOKAWA)の教える基本的な型(切字と季語を組み合わせる型)を外れた時、季語を立たせる方法を探っていきます。わかりやすい形を取っている<季語+や>以外の構造で例句を作ります。

  武蔵野や小川ひかりて夏がゆく
  武蔵野に小川ひかりて夏がゆく

 「武蔵野」という「俳枕」には(古くは)季語と同じような働きがあるので、どちらに重きを置くかという季重なりの問題に近いのですが、ここでは俳枕は核となるフレーズではないと仮定して話を進めます。季語である「夏がゆく」というフレーズはどちらが強く味わえるかということを考えたとき、「や」で切ると「武蔵野」に重きが出て、「に」で流すと「て」で軽く切れて「夏がゆく」に重きが出ます。強調したいところが助詞の斡旋一つでかなり変わっていきます。どうでしょう、読んでみて、実感はありますでしょうか。
 何気なく説明してしまいましたが、どうやら、現代の切れには強弱があるようです。芭蕉の「四七字全て切字也」という教えは有名ですが、切り方によっては、印象が大きく変わります。用言の連用形や、「て」「に」「を」「で」で光景のカットを切ると、今だと川柳みたいですが、言い切らないで言い流したり、弱い切れを入れることで、全体にバランスを調整することができそうです。俳句と川柳を比較した時にも、「て」で流す句を二つ並べましたが、切った感じが出たり出なかったりして、切れていると思うこともあれば、切れていないと思うこともある感じで、使い勝手の良い助詞だと確認できます。
 一方で、強い切字というと王道の「や」に、プレバトでお馴染み、詠嘆を含んだ「よ」、変わり種では「ぞ」なんてのもあります。「かな」「けり」「なり」など、句末に用いる切字も強い切れを起こします。体言で止めるのも、時として効果的です。「や」「かな」「けり」は特に、使い所が限られていて、例えば、ある句会で実験的に上五「かな」で切って、中七下五のフレーズを付ける俳句(作例、<桜かな白色灯は夜を灯し>)を見かけて真似したものですが、なかなかこれというものが出来ず、作っているうちに、こういう場合は「かな」ではなく「なり」を用いた方がベターであるということを学びました(例句を推敲するなら、<街灯のほの明るさに桜かな>とかにしちゃいますけど)。俳句の添削指導を色々見ていると、基礎的な形を逸脱するのは難しそうですが、助詞一つでさまざまな見せ方を出来ることを掴むことができれば、表現の幅が広がるでしょう。

おまけ・切れをめぐる議論について

 数年前、SNSで著名な俳人同士での切れの議論がありました。その記録を読み返してみましたが、切れの強弱で論争が起こり得るようです。切れには、重く切って意味の大きな飛躍を必要とする派と、軽く切れを続けて小さな飛躍で十分だという派があるようです。それぞれの例句を作ってみます。

  秋涼や石見土産の般若面
  秋涼の光陰りて般若面

 想像するに、こんな感じの対立でしょうか。切字を意識的に変えて、流れで中七を変えましたが、同じ読み方をすることができるはずです。例句を作った時には、どちらも「秋涼」と「般若面」を先に作って、中七で差をつけました。
 「や」で作った時には、「般若面」がどういう感情を与えるかを説明する言葉は季語に任せて、般若面のストーリーを補助する効果を探しました。地名を入れることで旅をした人には土地の情緒が付加されます。旅の情緒は季語によって誘導されて、過去の楽しさと寂しさと少し不気味な感じが出てくるように読めます。旅枕は過去の記憶なので情緒としては弱くなっていて、季節の言葉が最も強い情緒を出しているはずです。季語を使って旅の感想を言うことができます。
 「の」で作った時は、切字を軽くして、「秋涼」の描写を補助して、「般若面」に繋げるように作りました。こうやって作ると、季語の情緒が分からない人でも季語の情緒を想像することができます。ああ、夏が終わって少し翳りゆく季節になって、寂しさもありつつ、面がちょっと不気味な感じに映っていると。僕の読みの基準では、後者は「般若面」を強調しているので川柳なんですが、俳句として作っているので、なんだかちんぷんかんぷんです。こんなことあるんだ。
 総括的な感想を言うと、季語が死語になったとき、季語の情緒を散文が補う俳句が好まれるのではないかと思いました。季語の情緒を共有していることが大胆な省略の前提になっています。その言葉を理解している人と理解していない人で省略が有効であったり効果がなかったりします。すなわち、俳句に関する共通の知識を持つことが多くの俳句を理解する手がかりですが、共通の知識を持たない段階でしか理解できない俳句もあることが分かります。前提の共有という性質を持つからこそ、俳句には正解がないのでしょう。対象を広げて、前提を共有する形式に正解はないと考えてもいいと思います。

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