「新俳句」の研究

 今日(2022年10月30日)、伊藤園のお〜いお茶新俳句大賞の表彰式がありました。僕は応募したものの、佳作特別賞以上の受賞はなりませんでした。ただ、年々、作風の変化と作句の優先順位の変動によって、新俳句大賞に応募する作品の質が賞に適うものでなくなったのは確かで、投句もそろそろ潮時かなあと思いました。
 ここ数年、リモートでの発表会となって、応募者等からのコメントを見ることができるようになりました。今日の発表会では「新俳句ってなんだ」という声が大きい印象を持ちました。もっと言えば、「俳句じゃない」とか「川柳みたいだ」という声があるのも見ています。今日の選評でも、「これは新俳句として選ばれやすい句です」という選評がありました。応募者として長く考えてきた「新俳句」の方法論について整理したいという気持ちも手伝って、今までの新俳句の研究成果を発表しようじゃないかと意を決した次第です。

新俳句三箇条

 「新俳句」を作る時、あるいは自選する時、過去、僕の作品で2次予選を通過した作品を研究して、以下の約束事を設けるようにしました。

  • 人事を詠む(もっと言えば、作者の身の回りのことを詠む)

  • 気分が明るくなるように詠む

  • 真面目に作る(舐めたり媚びたり気取らないように作る)

 一応言っておくと、この約束を設けてから最高で佳作特別賞はもらっています。それ以上となると、審査員の先生たちに共感される人生を送っていないとダメなので、僕の人生では大賞は取れないですね(川柳の実作でも分かるかと思います)。大賞の取れぬ人生何とやら。
 僕の持論で言えば、川柳が送り先によって作り方が違うように、俳句も送り先によって作り方が変わります。俳句ではそんな器用に研究していないので、俳句の種類を分類できるほどパターンを持っているわけではないのですが、大まかに言って、伝統俳句と現代俳句と前衛俳句くらいに分かれるでしょうか。何にせよ、色々な方法論があります。
 では、この三箇条を一つずつ考察していきましょう。

人事俳句

 「新俳句」は上記の分類では現代俳句に属していて、かつ作者が俳句のどこかにいる必要があるので、俳句を始めたばかりの人にお薦めしたい作り方です。俳句を始めた人や学生さんが句材を探す時、自分の身の回りを探すことが多いと思います。この日常、すなわち人事を切り取るところが「新俳句」の特徴です。
 日常の一コマに感動を覚えて、それを周りに広める「新俳句」が川柳的と言われるのは、人事を詠むことが多いためで、下手にほかの種類の俳句を勉強するとこうした作風の句は感覚的に作れなくなります。例えば、季語は感情を操作するものですが、季語の歴史に従うと、描き出す人間の世界観というのはある程度抑制的になります。「新俳句」では逆に、人を立てて景物を添え物にするくらいでないと、「にんげんっていいな」と思う句は作れません。季語よりフレーズが優越するのも、川柳的と言われる所以でしょう。
 僕も俳句で没になった句を新俳句に送ったら佳作をもらえたということがありました。句意としては、突然降る雨に興奮する人々を詠んだものです。想像するに、俳句で没になったのは、季語が主でなく人が主になっていたためで、新俳句で佳作になったのは人の楽しそうな動きが見えたことで、自分が主役なら尚のことよかったでしょう。俳句だったら「自分が面白がっている」と一蹴されることを「新俳句」ではやり切らなければなりません。
 俳句と「新俳句」のバランスが取れなくなるのはこのためで、とりあえずは、俳句と川柳の中間くらいだと意識すると良いかもしれません。

明るい気持ちになる句

 「新俳句」に応募する時は、自身の作風を鑑みて、「明るい気持ちになる句」を目指して作っていました。これも別に正解ではなく、暗い句がダメというわけではなくて、暗い句の入選作というのは、震災前の作品集で見た記憶があります。あの時代はダウナー系の動機付けをして、逆に精神の健康を維持していた時代でした。震災以降は比較的明るい気分を作らないと時代が持続できないという空気だと思います。なので、出来るだけアッパー系の動機付けがいいと思って約束事を拵えました。叙情的であったり、ほのぼのした気持ちになる句も、現状肯定の意味で「にんげんっていいな」と思うので、平成以降では手堅い作風です。しかし、「新俳句」で大事なのは、技巧ではなく「人間性」なので、上手く作るだけではダメで、そこにさりげなさがなければいけません。
 時代の空気を見た上で判断しているところではあるのですが、企業主催の川柳にも関わりますが、「新俳句」は伊藤園に著作権が帰属する商品コピーとしての意味もあるので、できることなら明るい気持ちになる句を詠みたいという判断もあります。

俳句らしく作る

 「新俳句」は最終的に「にんげんっていいな」と思うことが大事なので、その余情を残すように日常の一コマを切り出すことを意識すると、媚びたり気取ったりしないで、想いをストレートに言おうと約束しています。
 俳句とも川柳とも言えない「新俳句」ですが、「新俳句」は俳句の一派ですので、俳句らしく作らないといけません。俳句を始めたばかりの人が戸惑うのは、ポップスの詞など、身近な詩に抽象的なメッセージや暗喩が多く、プレバトで「才能ナシ」や「凡人」と呼ばれるのは、読者に光景を浮かび上がらせることを拒んだ句というパターンがあります。川柳でいうところの「穿ち」は、光景を詠み切った後に残る余情の中で行われるべきです。ちょっと一般的な言い方とは違いますが、かつては「言い切ることは大事だけど、言い仰せてはいけない」という昔のセオリーに矛盾を感じたものですが、実際のところは、場面描写は言い切った方がいいけど、自分の内心は出しすぎてはいけないというメッセージなのでしょう。
 「新俳句」では内心は固定して、技巧的な部分を俳句らしく作るようにしています。季語は最悪添え物でもいいし、助詞も正確でなくていいのですが、俳句らしさがなければいけない。「新俳句」が俳句の何を素因数分解したかというと、短い言葉に光景がきちんと浮かび上がるという絵画性と考えます。近年は大賞の俳句にイラストが添えられるようになりました。俳句を読んだ時の絵ははっきりと見えて、その奥にあるメッセージに「にんげんっていいな」と読者に思わせなければ、「新俳句」は成り立たないように思います。声に出して読んだ時に、光景が見えるような作り方をすると上手くいくと思います。

まとめ〜これから新俳句を作る作者たちへ

 「新俳句」とは、すなわち「にんげんっていいな」という人間讃歌なのだなと思いました。自分では痛快と思った句でも、人間を讃えないと「新俳句」として具合が悪そうです。
 ここでは研究と称して理屈を書きましたが、「新俳句」を作る時は、できれば上記のようにマニュアルのように作るのではなく、「にんげんっていいな」と思った体験を書き残すようにしてください。その体験は人それぞれで、その違いに「新しい俳句」があります。余裕があれば、季語をつけたり、声に出して読んでみて、光景が浮かび上がるようになるとなお良いでしょう。大事なのは、技巧よりも心です。日常を楽しんだ句ができたら、新俳句として投句するのもいいでしょう。
 また、「新俳句」が面白くなって俳句を始めた時は、「新俳句」は色々ある俳句の一ジャンルであると考えてください。「新俳句」のセオリーは必ずしも普く俳句で通用するものではありません。現代俳句を手がかりにしていくと、同じような作風でも行けるでしょう。しかし、選んだ道によっては、全く違う方法論になることもあります。その時に、「新俳句」は俳句の一類型だけど、俳句にはいろいろな方法論があることを思い出してほしいです。僕の書いた「かってに」シリーズもそうですが、俳句の方法論は沢山あります。自分の好きな俳句、詠みたい俳句を持つことは、それが皆さんの道標になります。皆さんも是非、良き俳句の旅をお過ごしください。

(追記)2022年11月1日 17時10分
 本日、伊藤園の事務局より佳作の賞状が自宅に届きました。ありがとうございます。応募した人は結果が順次到着すると思います。今は佳作でも賞状が貰えるんですね。ちょっと得した気分です。

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