俳句を教えることについて(コンパクト版)

 『俳句』2024年4月号を読みました。大特集は「俳句と教育」で、学校教育の俳句教育や新聞投句、出前講座など、俳句教育についてさまざまな視点で論じられています。特に、学校教育の現場で俳句がどう扱われているかという記事は、自分の学齢期に俳句を勉強したときはどうだったかなと振り返りつつ、面白く読みました。
 中西亮太「小・中学校教育における俳句とずれ」(『俳句』2024年4月号 角川書店)でも指摘されているように、学習指導案の理想の俳句と、俳壇史に残る俳句の違いを明確にすることが必要であると思います。僕の得意なジャンル化が役に立ちそうです。
 論中、中西氏は、学校教育における規範的な俳句と俳人が作る俳句に異なる特徴がある旨を述べています。俳人が作る俳句というのは、教科書に載っている過去の名作や、それに類する作り方をした俳句です。一般向けに言えば、プレバトで「才能アリ」と言われるような俳句も似たような作り方をしますが、それらは「主観や思いを直接述べることなしに成立する」句であると中西氏は説明しています。これは、持論を言えば「俯瞰」の俳句と言えます。一方、教育現場で理想とされている俳句は、「主観や思い」を直接的に表現した俳句と中西氏によって説明されており、「さびしい」とか「うれしい」といった感情の言葉を含んでいることが特徴とのことです。「新俳句」(お〜いお茶のラベルに載っている俳句です)や「川柳的な俳句」で見られるように、人事を詠んで作者の提示した感情にのめり込む読み方(没入)を要する句は、「俯瞰俳句」とは異なる特徴を持っています。このような、学校で規範とされる俳句に「教育俳句」と名前を付けてみようと思います。
 「教育俳句」は、ジャンルの位置付けとしては「新俳句」の下部に位置付けられるものであると考えられます。「新俳句」は、実作の感覚をいえば「教育俳句」と比して、情趣にやや俯瞰性を伴う必要があります。とはいえ、人事を詠み、規範的な感情が好まれるという特徴には近似性があると思います。
 こうして位置付けてみると、俳句史において、「教育俳句」は異端な存在であることが言えると思います。「教育俳句」は伝統的な俳句の手法を学びつつ、その伝統から外れた俳句を作ることを求めています。これでは、教師も児童生徒も混乱するに決まっています。混乱を解くために、その特徴を分けて考えるということについては、中西氏に賛意します。
 本格的に俳句を学ぶことと、学校の授業で俳句を取り扱うことは、性格が大きく変わります。本格的に俳句を学ぶのであれば、特に初心の頃には自発心が大事になります。「やらされる」勉強はなかなか身につきません。自ら志す気持ちがあればこそ、芭蕉に見られる「手取り足取り教えないで、さりげなくヒントを与え、自覚を導く」という教育姿勢が生きていきます。ただし、残念ながら、芭蕉流の指導も向き不向きがあって、「丁寧に型を教えてヒントも積極的に伝える」ことが有効な場合もあります。今で言えばプレバト的な指導ですが、人の話を素直に聞いて、すぐに応用できるタイプの人には合いそうです。学校教育でも、後者の手法が好まれていると思います。型にはめるのも良し悪しですが、選択肢を持っておくことは良いと思います。
 俳句を学ぶ先にあること、そういうことも考えてみると、教え方も変わってくると思います。自分の初心の頃や、句友たちの人生を見るに、初心の頃は、まず、語彙が増え、雑学に詳しくなって、文法論に明るくなっていきながら、だんだん季語をはじめとして、一つの言葉にこだわるようになってと、言葉の使い方が広く深く成長する感じがあります。良いか悪いかわかりませんが、俳句の道に溺れて、人生を見失うタイプの友人はいないので、見ている感じでは、生活の友として俳句を捉えて、物事をよく観察するようになり、退屈はしないという付き合い方をする人が、身近には多いと思います。出来事を言葉で説明するようになると、言葉の中から自分を発見するということも起きてきます。俳句は人間だというけど、結局俳句を書くことで見つけられるのは自分自身なのではないかと思います。立派な人間でなくても、憧れになれなくても、それで良いのだと思います。もっと大きく見れば、表現というものは、自分の発見なのかもしれません。だからこそ、表現は繊細で豊かなものなのだと思います。

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