無季俳句と川柳を区別したい

 発表するかわからないですが、今までの記事を再構成する川柳論を書いています。論文中で、無季俳句と川柳を比較検討した結果、川柳作家の方々が実感する「物」と「心」の比較が上手く出来たので、noteに共有したいと思います。
 無季俳句について、俳句の構成要素とも言うべき「季語」がない俳句というのが存在しています。現代俳句協会の取りまとめた『現代俳句歳時記』に「無季」の巻があります。掲載語を見ると、俳句は事物に「情緒」を託す表現であり、季節感はないけれども、強い情緒を覚える事物を「季語」として取り扱うことが「俳句」のアイデンティティを確保するものであると、無季俳句の理論を補強した意欲作です。
 以前、俳句と川柳を区別した方法があって、最も情緒を強く出しているフレーズが季語かそうでないかでやりましたが、同じ区別方法を用いたとき、無季俳句と川柳ではどうなるか比較してみましょう。

  見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く  日野草城

  どんな日になるのか靴の紐が切れ  鈴木柳太郎

 一句目が無季俳句で、二句目が川柳です。
 まず、どのフレーズが最も強い感情を引き出すかを検討しましょう。草城句は「眼鏡」あたりが強い情緒を引き出してくれそうです。あるいは「見えぬ眼」としてもいいでしょう。無季俳句は、事物に強い情緒を与えています。一方で、柳太郎句は、事物を出しながら感情を詠みます。「靴の紐が切れ」が「どんな日になるのか」の言葉に「不安」の感情を与えます。すなわち、柳太郎句では「どんな日になるのか」という不安の感情が最も強い情緒として現れています。
 こうして区分することで、綺麗に「物」と「心」という比較ができました。最も強い情緒語による比較は、「俳句らしい川柳、川柳らしい俳句」と言われた時の一つの考え方として、ある程度有効そうです。

(参照文献)

・『現代俳句歳時記 無季」(2004 学研)
・樋口由紀子『金曜日の川柳』(2020 左右社)
・「無季俳句(むきはいく)とは? 意味や使い方 - コトバンク」
(https://kotobank.jp/word/無季俳句-1424644)


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