俳句鑑賞:はぐれもののひかり

  節分やたまたまとほる寄席のまへ  久保田万太郎

 舞台芸術というのはあまり好きになれません。
 舞台芸術というのは、単に役者が芸を披露するだけでなく、表現を見た観客の反応を見ながら演者と観客の双方向のコミュニケーションで作り上げていく形式であるようです。なんなら判例にもなっているくらいです。
 「長短」ではないけど、あれもこれも処理していると、情報を処理するのに時間がかかって、反応に遅れること山の如し、うっかり観客席に座った日には、セコい客だってんで演者にいじられること火の如し、光陰矢の如し。結果、舞台芸術に苦手意識を持つに至ったのですが、元をただせば、こちらの情報処理能力の問題なので、演者に罪はないです。
 例に漏れず、寄席でも痛い目に遭っているんですが、何故寄席の句を鑑賞するのかというと、寄席は、普通になれなかったはぐれものが救いを求める場所だったのではないかと思うからです。今でいうと、アニメ、音楽、演劇、映画、漫画、ゲームなど、様々なサブカルチャーが想像しやすいですね。
 で、人生のレールから外れたはぐれものが街をひとりさまよっている。ふと立ち止まると、(昼かもしれないけど)寄席の灯が煌々としていて、「俺にも居場所があったのか」と手を差し伸べられた、そんな救われた心境が掲句に見えます。
 万太郎は劇作家の顔を持ち、晩年は不遇だったという知識はありますが、その心境の一端が垣間見えます。作句背景は、今読んだほど孤独ではなく、平生歩いていただけなのかもしれません。ただ、孤独を抱えた現代の人々にとっては、寄席に抱く微かな希望は、読者の各々が救われたサブカルチャーと重なって、多く共感されるものだと思います。

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