子どものしつけとエウテュプロン問題

はじめに

聞いたところでは、北海道大学の櫻井義秀教授が率いるチームがエホバの証人の信者を親に持つ人たちを対象に、2023年の8月から9月にかけて面接調査をおこなったようだ。調査への協力者を募集していたSNSアカウントによれば、「宗教2世問題」が発生した社会的・家族的背景を把握し、学問的に検討をするのが目的とのこと。

1970年に日本全国で約1万人の信者がいたエホバの証人は、それから25年間でその数を約20倍にする。去年からマスコミやメディアでこの宗教団体の2世として体験を語っていた人々の大半は、この教団の発展期に入信した信者たちの子どもであり、第二次ベビーブーム以降に生まれた世代だ。
そして当時の急拡大の大きな理由は、彼らの母親たちに、子どもに道徳を教えるしつけの根拠として聖書が役立つと思われたから、というのが僕の唱えている説である。詳しくは次のnoteを参照してほしい。

僕はただの一般人だし、社会調査を自前で実施して自分の主張の正しさを証明することはできない。なのでこの調査で自説の裏付けとなるような結果がでてくればいいなと、はなはだ身勝手な期待をしているところである。
ただし調査の募集をおこなったのが教団を批判する団体だったというセレクションバイアスについては、プロがきちんと勘定に入れてほしいと思っているけど。

さて、実は以前僕は、櫻井義秀教授がエホバの証人について書いた論考を批判したことがある。主に指摘したのは「外堀からの調査」という櫻井先生が提唱する調査手法の問題点についてだが、「日本で正統のキリスト教徒の人数に比して統一教会やエホバの証人といった異端の信者数の割合が多いのは、日本人の文化的パーソナリティによるものだ」という主張にも批判を加えた。
ちなみに日本におけるエホバの証人:カトリック:プロテスタントの信者数の比率はおおよそ1:2:3である。実数だけでなく正統のキリスト教会との比率を含めて考えると、先進国としては例外的な数字だとみなせるだろう。

こちらも詳しくは上掲のnoteを読んでもらいたいが、櫻井先生の仮説は「日本人に備わる、権威主義と家父長的支配に引きつけられる傾向がそうした性格の宗教団体の隆盛をもたらした」というものであり、僕はあまりこの説明に説得力を感じない。
それにこの問いについては僕なりに考えてきた仮説がひとつある。本稿ではそれを論じてみたい。

ただし正確にいうと問いの内容は少し違う。元々の問いは「正統のキリスト教徒ですら全人口の1%にしかすぎない日本において、なぜ異端である統一教会やエホバの証人が信者を増やせたのか」というものだった。
本稿が答えようとするのは、エホバの証人の教勢が拡大した理由はしつけの根拠として聖書が役立つと思われたから、という自説に立脚する問いである。すなわち、「親世代の信者の入信の動機が子どもに道徳を教えるのに聖書を役立てたいというものだとして、彼女たちはなぜ異端で聖書を学ぶことにしたのか」というものだ。

誤解されるといけないので急いで断っておくと、本稿でする説明はいかなる意味でも正統と異端の教説を引き比べ、優劣を論じるようなものではない。ただそこには厳然とした違いがあり、それが現在までいたるこの教団の「宗教2世問題」の根源となっているとぼくは考えている。
その差異とは何かというと、エウテュプロン問題への回答のしかたである。

■神命説とエウテュプロン問題

冒頭にリンクを貼った「ジェンダーと「宗教2世問題」」という記事の中で、僕は次のように書いた。

例えば世間一般の親御さんたちは、「親のいうことを聞きなさい!」と子どもにいって「どうして?」と聞きかえされ返事に窮したことはないだろうか。そんな時、エホバの証人の親ならば、エフェソス6章1節に「子供たちよ、主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。」と書いてあるからだと答える。あるいはコロサイ3章20節の「子どもたちよ、すべての事において親に従順でありなさい。これは主にあって大いに喜ばれることなのです。」なんて聖句でもいい。
ガラテア5章22、23節には“霊の実“というクリスチャンが身につけるべき特質が書かれている。「愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・信仰・温和・自制」というものだが、エホバの証人の子どもはみんなこれを「仁義礼智信忠考悌」みたいな徳目として暗唱するのだ。
子どもどうしがケンカをしていたらコロサイ3章13節を持ちだすし、仲直りをさせたかったらマタイ18章21、22節を読ませる。

ここでいくつか例を挙げたように、エホバの証人の子どもとして育つということは、あらゆる規範と聖句を結びつけた教育を受けることを意味する。キリスト教にちょっと詳しい人なら、こうした状況をこの教団が掲げる教義の特徴である、逐語霊感説が原因だというかもしれない。
だが、それだけでは説明として十分ではない。というのも逐語霊感説とは、聖書全体が神の霊感を受けて書かれた無謬なものだとする考えのことだ。それより一つ前の段階として、聖書が神の言葉だったとして、そもそもなぜ神の言うとおりに行動しなくてはいけないのかは、また別の問題として存在するからだ。

この子どもの素朴な疑問に対して、神の存在を信じる親ならば、善悪を神が定めているからだ、と回答することが可能だ。
倫理学の一分野であるメタ倫理学では、道徳の源泉を神の命令に求めるこのような考えのことを神命説(divine command theory)と呼ぶ。

神命説の主張は次のように表現できる。
「何かが道徳的に正しいとは、神がそれを命じたということである。何かが道徳的に不正であるとは、神がそれを禁じたということである」。
そしてエウテュプロン問題とは、この主張に対し「正しいから神が命じたのか、神が命じたから正しいのか」を尋ねる問いである。

神がある行為φをおこなうように命じたとしよう。
神命説は道徳の実在論の一種なので、行為φが道徳的に正しいかどうかに、その命令を下した神への信仰を持っているかどうかは全く関係がない。

この時に神が行為φを命じたのはその正しさゆえ、とするならば、行為φの正しさは神が命令する以前に神と関係なく既に決定されていたこととなる。このような考え方では神の権威は、せいぜい人間よりも何が正しいかをよく知っているだけとなりかねない。

そうではなく、行為φは神が命じたから正しいのだ、とするならば、行為φはただ神の命令によってのみ正しいとされる。しかし、そのかわり内容が正しいかどうかは完全に神の恣意にゆだねられることとなる。このような考え方では、神からの命令であればどのような行為でさえ、たとえ殺人や盗みであっても正しいとされてしまうだろう。
このように、エウテュプロン問題はエウテュプロンのジレンマとも呼ばれる、どちらの答えを選んでも袋小路に入ってしまうような問題なのだ。

この問いはプラトンの初期対話篇『エウテュプロン』でのソクラテスの発言に由来するものであり、キリスト教ができる前どころか、イエス・キリストの誕生以前からの歴史をもつ古典的な問題である。神の存在を否定するか道徳の源泉を神に求めることを放棄すれば問題は解決するのだが、神を信じている人びとにとってはそうもいかない相談だ。神学でも哲学でもこのジレンマを克服するために、多くの議論が蓄積されてきた。

そうした長い反論と再反論の応酬の果てに、現在ではエウテュプロン問題への対応の仕方としては、概ね以下のような5つの方策が提案されてきていると、法哲学者の安藤馨は述べている。[安藤:2013

  1. 神は行為φをその道徳的特質のゆえに命ずる。 (神命説の棄却)

  2. 神命の恣意性は神が「愛する神 a loving God」である限りに於いて、許容され得る。(修正神命説)

  3. 神命の恣意性は神が(完全に)道徳的に善いないし卓越した存在者である限りに於いて、許容され得る。(当為論的神命説)

  4. 神命の恣意性は、神命に従う道徳的義務を神命に先行的に我々が有している限りに於いて、許容され得る。(規範的神命説)

  5. 神命が与える理由は非道徳的理由である。(宗教的神命説)

並べると上から順に、神命の恣意性を許容する度合いがだんだんと強まっていくような整理になっているのが見てとれる。そして一番下までいくと、「神命が課すのは宗教的責務であり、道徳的責務とは別のものであるから道徳的に恣意的であることは問題にならない」というところまで許容の範囲が達する。

アブラハムが息子のイサクを供犠として捧げることを神から命じられる「イサクの捕縛(アケダー)」[創世記22章1-18節]は、自らの道徳的判断を放棄することで神への忠節を示したという、道徳の神命説について考える際のお馴染みの逸話だ。このエピソードは宗教的神命説の立場から見ると、イサクの殺害の実行寸前までいったアブラハムは宗教的責務を道徳的責務に優先させたのだと解釈できる。これは神命論者であるフィリップ・クインの主張だ。

あるいはもっと簡単に言いかえると、方策の5番目の宗教的神命説は「正しいから神が命じたのか、神が命じたから正しいのか」という問いに対して、「神が命じたから正しい」を選択した上で、「神が命じたからには何がなんでも正しい」と主張する立場とみなせるだろう。

上記の整理は神学・哲学の議論から得られたものであるゆえに、現実のさまざまな宗教の教義や実践とピタリと一致するものではない。もしかすると信仰の現場ではこれらの方策が場面によって使い分けられてさえいるかもしれない。
しかし、実はエホバの証人の教えの根幹をなす教義は、方策の5番目の宗教的神命説と類似していて、そうした教義が採用された歴史的背景にはおそらくエウテュプロン問題も関係している。できるだけかいつまんで説明してみよう。

■エホバの証人とエウテュプロン問題

そもそもエホバの証人という教団の名称には、彼らが旧約・新約聖書の神だとみなす、「エホバの宇宙主権を証しする人々」という意味がある。そしてこの宇宙主権と呼ばれるものこそ、神だけが独占するべき「物事の善悪を決める権利」のことにほかならないのである。

彼らによれば創世記のアダムの創造から失楽園にいたる逸話は、神のこの権利へ最初の人間が反逆した記録である。アダムとエバが神の命令を破って「善悪の知識の木」の実を食べたことは、神だけが独占するべき善と悪を定める権利を無視する行為であり、この罪によって本来は不死であった人間は死すべき存在となった。
未来には地上の楽園で再び人類が永遠に生きる計画が予定されているが、その救済にあずかる人間を選別するハルマゲドンの時まで、人間が個人としてできることは自らの自由意志に基づいてエホバ神の命令に忠節に従う態度を示しつづけること以外にない。簡単にいえばこのような教えだ。

よってエホバの証人の教義にのっとったエウテュプロン問題への回答は次のようになる。
「正しいから神が命じたのか、神が命じたから正しいのか」という問いには「神が命じたから正しい」を選んだうえで、神が命じたからには何がなんでも正しい、なぜならば人間は自ら善悪を判断するように創造されていないし、そもそも善悪を決定する権利は独占的にエホバ神が保持するべきものであるから、というものである。

こうした神命の恣意性を全面的に許容するタイプの神命説を支持する人は、現代ではあまり多くないかもしれない。
宗教改革を経て啓蒙主義と科学主義が西欧社会に浸透する中、宗教指導者の影響力も神の権威も次第に弱まっていったというのが世界史の大まかな流れだ。
さらに時代が進んで19世紀末になると、アメリカにおいて進化論や文献批評学的な聖書解釈からなる近代思想とキリスト教信仰を調和させようとするモダニストというグループが登場する。これに反対したのがファンダメンタリストという人々であり、彼らは聖書は神によって書かれた啓示の書だと強硬に主張し、創造論と聖書直解主義を支持した。

エホバの証人は19世紀末のアメリカで発祥し、ファンダメンタリストたちの主張や、信仰復興運動と呼ばれる当時の北米の宗教的大衆運動の影響を受けて、教義を整備してきた教団である。全面的に神の恣意性を許容し、人間の道徳的な無力を強調するような神命説を教義の中心に据えていることは、人間の理性に基づく道徳的判断を尊重する近代への反発のあらわれとも考えられるだろう。

だから話題にのぼることの多い輸血拒否についてもちょっと触れておくと、血は神聖なものなので避けるべしという神命が聖書に書いてあると、彼らがそう信じているという以外にエホバの証人が輸血を拒否する理由はない。出版物の中で肝炎の危険性がどうとかごにょごにょ言い訳することもあるにはあるが、それは神命が与えられた後に輸血をしないことの(リスクとメリットの比較が釣り合っていない)良さについて語ることであり、本質的に余剰なのである。
それはある行為φの道徳的性質が説明された後に下される神命が余剰であることと、ちょうど裏返しの関係にある。

■道徳の神命説と「宗教2世問題」

ここまで道徳の源泉を神の命令に求める神命説について説明をしてきたものの、はっきりいってあまりピンときていない人もいるのではないだろうか。
「神が任意の行為を命じるのはその行為の正しさのゆえである」という主張のどこが問題なのかが分かって、エウテュプロン問題がジレンマであることを直感的に理解できる日本人はあまり多くないように僕は思う。神は人間にとって正しいことをただ教えてくれるような存在であってはならず、正しさの源泉でなければならないというのは、日本ではあまり馴染みのない考えだからだ。
だが他でもなく、道徳の神命説が日本で馴染みがなかったことこそ、エホバの証人という教団が日本で拡大できた要因だと僕は考えている。

繰り返しになるが、エホバの証人の教勢が拡大した理由はしつけの根拠として聖書が役立つと思われたからというのが僕の考えだ。この教団の「宗教2世」の親世代の人びとは、聖書には良いことが書かれていると思って入信したのである。
前々節の冒頭でエフェソス6章1節やコロサイ3章20節という聖句を根拠に「親に対して従順であれ」と子どもを教育している様子を紹介した。
聖書には良いことが書かれていると思って入信した親世代の信者は、このような聖書のさまざまな箇所から抜粋してきた聖句には、道徳的な正しさが保証されていると考えていたに違いない。

だが先ほどから見てきた通り、「神が命じたからには何がなんでも正しい」とする神命説の立場をとる場合、たとえ聖書が霊感の書であったとしても、そこに記されている事柄に従うことで達成できるのはただ神の命令に従ったという事実だけであり、それが人間の観点から正しいと感じられる行為であるかどうかは定かではないのである。
したがって、「どうして親のいうことを聞かなければならないのか?」と子どもに尋ねられた際、「聖書にそう書いてあるからだ」とする回答では、親のいうことを聞くことの道徳的な正しさについて、実は何も意味のある答えにはなっていないのだ。

この見当違いな返答が単純に親世代の信者たちの教義に対する理解不足を反映しているかというと、必ずしもそうとは言えないだろう。
なぜなら、エホバの証人が提示する道徳基準にまだ信者ではない時点で賛同し、それを自分の子どもにも教育したいと考えたのが彼女たちの入信の動機であったからだ。
おそらく親たちにとって聖書の聖句が示す規範には、その規範を支持する自らの感情と、神からの命令という2種類の根拠が存在していたと考えられるのである。

つまり、親世代の信者にとっては様々な聖句を読んだ時に感じた、これは道徳的に正しいことだという素朴な確信がまずあった。それゆえ特定の聖句と規範を結びつけて聖書を「べき集・べからず集」のように用いることに躊躇がなく、改めてその聖句が与える規範の道徳的な正しさについて考える必要を感じなかったのだ。
このことは「神が命じたからには何がなんでも正しい」とする神命説の立場を採用し、なおかつ逐語霊感説をとる教団の姿勢とも歩調が合うものだった。

倫理学者であり神学者でもあったエリザベス・アンスコムは、道徳的責務や義務といった概念はキリスト教の伝統の中で生まれてきたとしている。それと同時に神の存在が信じられなくなった現代では、そうした「道徳的なべし」の概念は古い伝統の残余に過ぎないから捨ててしまおうとも言うのだが。[佐藤:2016
しかし日本社会では、神命を根拠とする道徳的責務という概念が普遍的になったことはなく、親世代の信者たちも入信するまでは神の命令に従って生きてきたのではなかった。入信という契機のあった人々にとっては、例え教義がどうであったとしても「正しいから神が命じた」という認識のほうが相応しいものだったかもしれない。
しかしながら、有神論を前提とした教育を受けた子どもたちにとっては「神が命じたから正しい」という、神命に従う責務や義務以外には道徳の根拠がなく、これはある水準での人間の絶対的な道徳的無力を帰結してしまう。
この教団の「宗教2世問題」の文脈でもよく指摘される、自分で選んだ信仰ではない、という論点を道徳の根拠の視点から捉えると、親と子の間に存在するこのような非対称性の問題と考えることもできるのではないだろうか。

本稿の目的は「親世代の信者の入信の動機が子どもに道徳を教えるのに聖書を役立てたいというものだとして、彼女たちはなぜ異端で聖書を学ぶことにしたのか」というものだった。
この問いに対し、エホバの証人の教えの根幹に「神が命じたからには何がなんでも正しい」という思想があったために、特定の聖句と規範を結びつけて聖書を「べき集・べからず集」のように用いることができたから、というのが本稿の結論である。
そして、それは「正しいから神が命じたのか、神が命じたから正しいのか」という古典的な問いに対して、時代とともに世俗化する社会に適応しようとしていたキリスト教界への反動として、19-20世紀のアメリカで採用された極端な立場だったのだ。

ただバランスを考えて若干の補足をしておくと、人間の道徳的判断を放棄するという立場を全否定しては、神命説そのものが揺るぎかねないかもしれない。
現実のいろいろな人の信仰心とも関わるので表現が難しいけれど、先に紹介した方策2と3と4は厳密には神命説とは言えない、とする考え方もある。
中間策を採用すればエウテュプロン問題が解決する訳ではないところが、ジレンマのジレンマたるゆえんなのである。

おわりに

何かの宗教を信じている人について、「思考停止」という表現が使われることがある。否定的な意味合いで使われることの多いこの言葉だが、個人としてであれ宗教運動としてであれ、自己の理性への尊大な信頼と慎み深く敬虔な思考停止のあいだで揺れ動くのは信仰者の常ではないだろうか。

もちろん、なにごとも客観的に見たときの良い塩梅というものはあるだろうし、自分のは健全な信仰だがあいつらのはただの盲信だとか、信仰を持つ人びとの間で言い争いがあるのも仕方のないことだと僕は思うので、特定の宗教団体のことを悪しざまにいう人を咎めたこともあまりない。

けれど、最近はそうした意見論評をこえて、ある宗教団体に所属する人びとはマインドコントロールと呼ばれるような手段で操られているだけというような主張が大っぴらに語られるようになっている。
任意の宗教の信者をまともな思考能力を持った人間として扱うかどうかを、世俗の多数派が決定しても構わないというようなこうした態度は、僕には非常にグロテスクなものに感じられる。

エウテュプロン問題がジレンマであるという事実は、盲信と敬虔な信仰を外部から勝手に区別することの本質的な不可能性を示唆するものではないか、そう僕は考えている。本稿がこの難問の前に立ち止まって思い悩む人を、一人でも増やすことができたならば筆者として望外の喜びである。

最後に、メタ倫理学の見地から神命説を説明するために、本稿は佐藤岳詩『メタ倫理学入門 道徳のそもそもを考える』(勁草書房、2017年)という本の130−139頁を大いに参考にした。でもどこか間違いなどがあれば、それはひとえに僕の理解が不足しているせいである。
いわゆる「宗教リテラシーの不足」なる表現が用いられるとき、話者が想定している内容とは具体的には消費者教育(金融教育も含む)とメタ倫理学に分解できるのではないかと感じることが多々ある。今後の日本社会と宗教の関わり合いを考える上でもこの本はおすすめである。

・参考文献

安藤馨(2013)「現代法概念論の諸相:法の規範性とEuthyphro問題」『神戸法學雑誌』63.3、131ー149頁。
稲葉振一郎(2021)『社会倫理学講義』有斐閣。
佐藤岳詩(2016)「アンスコム、“Modern Moral Philosophy”の処方箋」『先端倫理研究』第10号、5ー24頁。
佐藤岳詩(2017)『メタ倫理学入門ー道徳のそもそもを考える』勁草書房。
藤本温(2000)「エウテュプロン問題(1)ー宗教と倫理ー」『種智院大学研究紀要』第1号、84ー99頁。