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西村賢太の初盆墓参の記

厄年などいい加減なもので、そんなものは関係なく、かつてない絶望はいとも簡単に、そして不意に襲ってくる。それが2022年だった。去年の2月5日、西村賢太が死んだ。これは凡庸な追悼である。

一人の作家が死んだくらいで大仰だと思う人もいるかもしれないが、作品は読者の血肉になる。西村賢太は、私の体を流れる血であった。運命という圧倒的な暴力でこの身を裂かれてしまった。

同時代に生きたことがもつ意味は少なくない。死んでしまうと、一度でも直接会っていればなんて頭をよぎるが、作家に会うことなどなんの意味もない。ただ、同時代に生きたことには意味がある、あった。私は西村賢太にまみえることはついぞなかったし、不思議と会える機会を探していたわけでもなかった。いつか彼の敬愛する藤澤清造の墓前で会うことがあれば……、くらいには思っていた。

2月5日は土曜だった。平日であれば仕事で紛らわせられるところが、休日だったために余計に丸二日も涙が止まらない羽目になった。人それぞれ生きるよすががある。わが子や家族と言う人もいれば、信念や目標と言う人もいるだろうが、生憎私の場合は、この中年の作家だった。

作品を開く気にもならず、考えないようにと思うばかりで日が過ぎた。四十九日だったかに偲ぶ人が墓前に集まったという記事や、木村綾子さんが募った追悼文集のことなども後から知った。ソーシャルメディアに溢れる追悼の言葉を見るにつけ、Twitterやらに吐露もできぬ妙な孤独感も味わった。悲しみは言葉にされ、受け入れられ、死は抽象化されて、こうして風化していくのである。『文學界』に掲載された葛山久子氏の追悼文は、いまだ『雨滴は続く』を手にできない私にもある種の救いになるものだった。

事実を受け入れられないながらも、一方では、今すぐに墓に駆けつけたいような焦燥感を抱えたまま、夏を迎えた。盆に親の墓参りもしたことがないが、今年ばかりは氏が藤澤清造の月命日に通った、くだんの墓へ足を向けようと思い至った。いい加減向き合わねば、精神的生活が立ちいかなかったのである。

西村賢太の作品に親しむ者には、氏が藤澤清造の墓を建てたばかりか、その隣に自身の生前墓をつくったことは広く知られるところである。

2022年8月。能登半島、七尾にある西光寺は静かな寺だった。初盆で賑わっているかと思いきや、人ひとりおらずひっそりとしていた。墓前にはまだ生きた花や新しい酒が供えてあった。風に飛ばされた供え物のラッキーストライクは、烏にでも突かれたのか、不味くて捨てられたように墓の近くに落ちていた。そこに西村賢太が眠っているようにはまるで思えず、合掌しても、私の頭は空っぽで、氏に語りかける言葉の一つも浮かばなかった。墓石などただの石である、とは、墓にこだわった氏の手前言えたものではないが、結句私にとってはなんでもなかった。ただ、私はあの寺の空気が好きだったから、氏に会いにいくなぞと感傷的な理由をつけずとも、定期的にのぞきに行こうと思う。墓参りはついでである。

墓にスマホを向ける趣味はないが、せっかく足を運んだものだから、職業柄、なにか書き残すときに添えようと無神経に写真を撮った。

藤澤清造、田中英光、川崎長太郎、葛西善蔵といったたくさんの私小説作家に出会い、私小説にどっぷりと浸かった私の二十代は他ならぬ西村賢太の影響によるものであった。私小説を書こうとしてもうまくいかなくて拘泥した私は、最近ではなかばSFじみた小賢しいものを書くようになったが、いつか私が書いたしようのない駄作を悪辣にこきおろしてほしかったものである。

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