エガオが笑う時 第5話
彼に連れられて私は公園の奥に行く。が、そこには店なんてなかった。
あるのは雨に濡れた背の高い植林された木々、黒く染まった整頓された石畳、中央に備えられた雨を投げ飛ばすかのように抱き合った男女の間から大量の水を溢れさせる大きな噴水、そしてその隣に並ぶ長方形の箱のような大きな白い馬車であった。
馬車は、雨に揺れながらもその美しい白色を汚すことなく、優雅にその場面に収まっていた。
彼は、私に傘を渡すとそのまま抜け出て馬車の前に回る。
「待たせて悪かったな」
彼は、自分が濡れるのも構わず、馬車の御者台の前に佇む巨大な黒い馬の首筋を撫でた。
黒い馬は、気持ちよさそうに目を細め、「どうってことない」と言うように小さく鳴いた。
私は、巨大な黒い馬を見て大きく目を見開く。
黒い革紐で馬車と連結した黒い馬の目は、燃えるように赤く、そして隆々と筋肉の盛り上がった長い足が6本あったからだ。
「スレイプニル」
私は、呆然と呟く。
私の言葉に彼は、にっと口元を釣り上げる。
「よく知ってるな」
知らないはずはない。
戦いに身を置く者でスレイプニルを知らない者なんて。
スレイプニルは、伝説の軍馬だ。
その六本の脚は、呼吸を三度する間に山を乗り越え、大地を割り、燃え上がる炎ような眼光は敵を慄かせ、射殺すよう、その戦力は一頭だけで兵一千人に匹敵すると言われている。
しかし、あまりにも数が少なく王国と帝国が戦争始めた当初でも互いの国で数を合わせて五頭もおらず、ついには野生で見かけることすら無くなったと言われている。
「何でスレイプニルがここに?」
私は、思わず身を構え、大鉈の柄を握る。
まさか彼は帝国の兵?
私を騙し、捕らえ、殺す為にここまで誘導したのか?
私は、彼を睨みつける。
しかし、当の彼もスレイプニルもキョトンっとした顔でこちらを見ている。
「何してんだお前?」
彼は、無精髭を摩る。
スレイプニルも赤い目を向けて首を傾げる。
「だって・・・スレイプニルが・・」
「そりゃ馬車を轢くのに馬がいるのは当然だろう?」
何言ったんだ?と言わんばかりに彼は言う。スレイプニルも同意するように小さく鳴く。
「こいつはスーやんって言うんだ。こう見えても女の子だから優しくな」
こう見えてと言うのが余計だったのか?スーヤンは抗議の唸りを上げ、彼の鳥の巣のような髪を噛む。彼は、大袈裟に悲鳴を上げる。
私は、呆然と二人(?)のやり取りを見る。
「痛えってスーやん。ごめんよ」
彼は、悲鳴を上げながら謝る。
「お客さんの前だからやめて!」
そう叫ぶとスーやんは、ようやく髪を離す。
彼は、乱れた(?)髪を整えながらポケットから小さな鍵を取り出す。
そしてスーやんの大きなお尻の後ろにある馬車の壁の中央にある鍵穴に差し込む。
「ちょっと離れててな」
彼は、柔らかい口調で私に声かける。
私は、言われるままに後ろに下がる。
彼は、ゆっくりと鍵を回す。
何かが外れ、周り出す音が聞こえた。
次の瞬間、私は絶句する。
長方形の白い馬車が音を立てて西瓜ように左右に割れ、広がり始めたのだ。それと同時に大きな車輪が壁の上に持ち上がり、入れ替わるように小さな車輪が現れ、揺れた石畳の上を滑るように回る。
完全に左右に開き切ると現れたのは大きく、長い厨房であった。
銀色に輝く流しと水道、真っ白な調理台、そこに並べられた色鮮やかな食材、黒光りする三つの五徳、頭上に暖簾のように並んだ調理器具や食器にグラス、全てが扱いやすいよう、動きやすいように法則に則って作られているように見える。
まるで子どもの人形の館のように変形した馬車を私は口を丸く開けて見ていた。
そこにバサっと大きくて柔らかいものが私の頭に被さる。
突然の闇に驚くが同時に花のような良い香りに心が和む。
頭に被さったものを取るとそれは清潔で柔らかいタオルであった。
「キッチン馬車へようこそ」
いつのまにか彼とスーやんが近寄っていた。
タオルを投げたのは彼だと直ぐに分かった。
彼は、白く丸い円卓と椅子を、スーヤンは背中に大きな傘を背負っている。
彼は、いつのまにか白いエプロンを身体に巻き付けていた。
彼は、円卓を置き、椅子を置き、スーヤンの背負った傘を広げて円卓の中央の穴に差し、清潔な布巾で濡れた部分を拭く。
ピンク色の傘を携えた円卓のテーブルは、とても可愛らしかった。
「どうぞお座り下さい」
彼は、椅子を引く。
私は、その言葉が私に声かけられていると気づかなかった。
「どうした?早く座りな?」
彼は、無精髭に皺を寄せる。
スーやんも促すように唸る。
私は、ようやく自分に言われていると気づく。
「えっでも・・」
「いいから!」
彼は、再び私の手を握り、強引に座らせる。
何で彼の手に逆らえないのだろう?
彼は、私が座ったことに満足すると厨房に駆け寄り、そして急いで戻ってくる。
「直ぐ準備するからちょっと待っててな」
彼は、そう言って私の前に水の入ったグラスを置く。
「水道水じゃないからな」
彼は、笑いながら言い、厨房に戻っていく。
私は、タオルで髪と肌を拭き、そしてコップと睨めっこする。
決して毒が入ってると疑っている訳ではない。もし毒が入っていたらどんなに僅かな匂いでも分かるから。新しく無味無臭の毒でも出来てたらお手上げだがそれはないだろうと何故か思った。
私は、コップを手に取り、口に付ける。
甘酸っぱい清涼な味と匂いが口の中に広がる。
私は、驚いてコップから口を離す。
厨房から笑い声がする。
「レモン水だよ。飲むの初めてか?」
彼は、可笑しそうに口元を釣り上げながらぶら下がった調理器具を手に取っていく。
「少し驚いただけです」
私は、自分でも分かるくらいにツンッとした声で言い、再びレモン水に口を付ける。
こんなにしっかりと味が付いたものを飲むのなんていつぶりだろう?しかもこんな美味しいものを。
私は、彼にもスーヤンにも見られないようにレモン水を味わう。
濃厚な匂いが鼻腔に入り込む。
これはバターの焼ける匂い?
私は、厨房に目をやる。
彼は、青い炎の上がる五徳の前に立ち、赤いフライパンをゆっくりと回している。
「何してるの?」
見れば分かることなのに私は思わず声を出す。
「見りゃ分かるだろ?料理だよ。爆弾作りにでも見えたか?」
彼は、ふざけたように言うがフライパンから目を離さない。
彼は、フライパンをじっと見つめたまま黄色く染まった台形の物をフライパンの上に落としていく。
その瞬間、耳触りの良い破裂音と共に芳醇甘い香りが広がる。
私は、思わず目を大きく見開く。
胃袋が大きく鳴り出す。
その音が聞こえたのか、彼は小さく笑い、スーやんが小さく鳴く。
私は、恥ずかしくなりながらも厨房から目を離すことが出来なかった。
彼は、白い皿を取るとフライパンの中身を乗せていく。
甘い香りがさらに膨らむ。
「よっしゃ」
彼は、小さく呟くと五徳の火を決し、厨房を降りて雨の中を走ってくる。
「お待たせ」
そう言って彼は、白い皿とフォークとナイフを私の前に置く。
それは黄白色に染まった台形に切られたパンであった。表面に綺麗な焼け目が付き、赤茶色のソースのようなものが掛かっている。
「フレンチトーストだよ」
彼は、口の端をにっと釣り上げる。
「浅漬けだけど揉み込んだから随分柔らかくなったぜ」
「柔らかい?」
私は、眉根を寄せて呟き、そしてあっと声を出す。
「ひょっとして・・・」
「あんたのパンだよ。苦労したぜ」
私は、目の前であまりにも美しく変身した固いパンを見る。
「どうぞ召し上がれ」
そう言って彼は、白いカップに入った飲み物を置く。
「いただきます」
私は、フォークを手に取り、フレンチトーストに突き刺す。あれだけ固かったパンが音も立てずにフォークを受け入れた。私は、ナイフで小さく切り分けて口に運ぶ。
柔らかい、甘い、そして美味しい。
今まで味わったことのない甘味と旨味が口の中いっぱいに広がっていく。
私は、夢中でフォークとナイフを動かし、フレンチトーストを口に運んだ。
舌と胃袋が喜んでる。
濡れた身体が優しく温まる。
私は、雨に濡れてもないのに頬が濡れるのを感じた。
彼の口が丸く開く。
「そんなに美味かったか?」
彼は、無精髭を擦る。
「得意料理だけど自慢の一品て訳じゃないんだけどな」
彼の言葉に私は、首を何度も横に振る。
「こんな美味しい物・・食べたことない」
私は、フレンチトーストを大切に、大切に切り分けて口に運ぶ。
無くなってしまわないように。
この幸せが消えてしまわないように。
彼は、嬉しそうに笑みを浮かべている。
髪で見えないが目もきっと嬉しそうに細まっているのだろう。
綺麗な笑顔だな。
私には浮かべることの出来ない笑顔。
"笑顔のないエガオ"
私は、そんな言葉を反芻しながらフレンチトーストを食べた。
冷たい雨の音がとても心地良かった。
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