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D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous

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  • 我々はどこへ行くのか

  • 我々は何者か

  • 我々はどこから来たのか

最近の記事

“ALCHIMIE DU VERBE”

Ce fut d'abord une étude. J'écrivais des silences, des nuits, je notais l'inexprimable. Je fixais des vertiges. — Arthur Rimbaud, Une saison en Enfer しじまのよわにさとり ゆめまぼろしにまじろぐ “無のためのスケッチ” のように « A moi. L'histoire d'une de mes folies. » [

    • “神を宿す”

      シュクジンにはいろいろと奇妙な属性があたえられていた。もともとが荒れやすい神で、動物霊や植物の霊とも深いつながりをもっていた。シュクジンが降りてくると、職人たちの技は冴え渡るようになり、芸人は神かとみまごうばかりの神秘の芸を演ずることができる、と信じられた。その神は人間のなかに不思議な通路をつくりだして、そこをとおして動物や植物といった非人間の世界に入り込んでいくことを可能にした。また、シュクジンは北極星だとも言われた。天体の運行全体を支えながら、不動の存在として、天体の世界

      • “the Milky Way Captured”

        ☞The Entire Plane of the Milky Way Captured in a Single Photo 古代ギリシャの哲学者デモクリトスが天の川 (Via Lactea) は遠く離れた星々の集合体だと説いたのは、紀元前400年ごろ。 その説が最初に確認されたのは、イタリアのガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天の川を観測した1609年のこと。 1755年にはプロイセン王国のイマヌエル・カントが、太陽系と同じように天の川も多くの恒星が円盤状の構造をして回

        • “Mellow Yellow Feelの謡ひ”

          淡い 思い 記憶 イメージ 行く宛も なく 浮かんで 消えた Hello Mellow Yellow Feel ——《Mellow Yellow Feel》歌:CORNELIUS 作詞・作曲:小山田圭吾 ゆっくりと謡われる ひとつひとつのオン はじめのオトと それに連なるオトと いったん分断される言葉たち 予想された言葉と 思いがけない言葉が それは歌ひではなく、まるで謡ひのように浮かんで消える うつり香の身にしむばかり契るとて扇​の風の行へたづねば 藤原定家 [

        “ALCHIMIE DU VERBE”

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        • 我々はどこへ行くのか
          5本
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          5本
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          5本

        記事

          “呪術的な「而」と散在する「今」”

          しかあれども、道理この一条のみにあらず。いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。時もし去来の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山渡河の時、この玉殿朱楼を呑却せざらんや、吐却せざらんや。 ——道元『正法眼蔵』第二十 有時 直線的時間でもなく、円環的時間でもなく  ——「前後ありといへども、前後際断せり」 クロノス時間でもなく、カイロス時間でもない

          “呪術的な「而」と散在する「今」”

          “{Maeda+Iwabuchi+Takemitsu}Teshigawara / abe”

          ☞Waltz – The Face of Another (1966)<安部公房『他人の顔』 Ich schaue dir ins Gesicht, das vor mir steht, doch erkenn' ich dich nicht mehr. Wo bist du? Wo bist du, von gestern, du? ——《ワルツ》歌:前田美波里 作詞:岩淵達治 作曲:武満徹 顔を失った男が、人工皮膚の仮面をつけられるときに響くのは  ——小鼓の

          “{Maeda+Iwabuchi+Takemitsu}Teshigawara / abe”

          “アレアトリー”

           われわれが過去を思いうかべようとしても無駄で、知性はいくら努力しても無力なのだ。過去は、知性の領域や、その力のおよぶ範囲の埒外であり、われわれには想いも寄らない物質的対象のなかに隠れている。この対象にわれわれが死ぬ前に出会えるか出会えないかは、もっぱら偶然に左右される。 ——マルセル・プルースト『失われた時を求めて 第一篇 スワン家のほうへ』 思いがけず蘇る記憶も、これから生まれるものたちも、アレアトリーに属している。 《変奏》される思考 ☞ 骰子一擲 Un Coup

          “アレアトリー”

          “Chopin/Delacroix/Sand+Maurice”

           Chopin n'écoute plus. Il est au piano et il ne s'aperçoit pas qu'on l'écoute. Il improvise comme au hasard. Il s'arrête. Eh bien, eh bien, s'écrie Delacroix, ce n'est pas fini!  — Ce n'est pas commencé. Rien ne me vient... rien que des ref

          “Chopin/Delacroix/Sand+Maurice”

          “次の朝は他人”

          ☞『次の朝は他人』<「HONG SANGSOO RETROSPECTIVE 12色のホン・サンス」 物語がその姿をあらわすまえに、通り過ぎていく。 変奏されているのに、主題は提示されないままだ。 「ゆっくりととても表情豊かに」 ♪Le nocturne nº 20 en do dièse mineur [ I1.a ] 2021-05-16 11:42(UTC+0900) @YRT /TT 2021-05-16 22:53(UTC+0900) @TSD /TT

          “次の朝は他人”

          “不在なるものの輝き”

          何よりもまず人は見えてはいないものしか創造したりはしないものだという事実があるからであり、もし、リュミエール兄弟が、開かれた未来の中空に鮮明な輪郭で描かれた映画のイメージを認めていたのだとしたら、「グラン・カフェ」での最初の興行など永遠に延期され続けていたはずであって、だから映画は、その幼年期の夢想をむさぼっていたベル・エポックの幸福な昔から、映画の暗がりといった容易な比喩では把えてほしくないより生なましい闇によって、一貫して未来を閉ざされ続けてきたはずのものなのだ。 ——

          “不在なるものの輝き”

          “La Nuit étoilée の塗り残し”

          ☞Vincent van Gogh “The Starry Night” Saint Rémy, June 1889 MoMA le 25 mai 1889, à 4:40 précisément. [ V1.a ] 2021-04-15 15:34(UTC+0900) @TSD /TT 2021-04-22 14:59(UTC+0900) @TSD /TT

          “La Nuit étoilée の塗り残し”

          “@Bologna”

          わたしたちが実際に見ているもの以上に、もっと抽象的でもっと非現実的なものは何もない、とわたしは信じています。わたしたちが人間として対象世界について見ることのできるあらゆるものは、わたしたちがそれを見て理解するようには実際には存在していない、ということをわたしたちは知っています。 ——『ジョルジョ・モランディの手紙』 何を見ているのか。何を描いているのか。 何が繰り返されているのか。何が潜んでいるのか。 どんな像を浮かび上がらせるのか。そして消えていくのか。 何色なのか。

          “@Bologna”

          “変奏と変項と多様性と”

          芸術、科学、哲学は、それよりももっと多くのことを求めている。すなわち、それらは、カオスのうえにもろもろの平面を描くのである。それらの三つの学問分野は、宗教のようなものではない。というのも、傘〔の内側〕にひとつの天空を描くために、宗教は、わたしたちのオピニオンがそこから出てくる根源的臆見(ウアドクサ)の諸形像としての、神々の系譜や、唯一神のエピファニーを援用するからである。哲学、科学、そして芸術が欲しているのは、わたしたちがそうした穹窿を引き裂くこと、わたしたちがカオスのなかに

          “変奏と変項と多様性と”

          “無のためのスケッチ”

           比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優が何らの稽古もなしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチははいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわ

          “無のためのスケッチ”

          “石とキス”

           この世界を出来事、過程の集まりと見ると、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。これが、相対性理論と両立し得る唯一の方法なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。  物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる、いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界

          “石とキス”

          “偏在と遍在を編集する”

          偏 11画 扁は片開きの網戸の形。扁に片方、ひとつの意味がある。[説文]八上に「頗るなり」とあり、「かたよる、ひとつ、一方、ひとえに」の意味に用いる。偏枯とは半身不随の意味であるが、洪水神の禹は中国全土の治水のために東奔西走し、偏枯となったと伝承されている。 遍 12画 扁は片開きの網戸の形。扁はかたよる、一方の意味であるが、歩く、行くの意味のある彳・辵を加えた徧・遍は「あまねし(広くゆきわたっっている)、ゆきわたる」の意味に用いる。[説文]二下に徧を正字とし、「帀るなり」と

          “偏在と遍在を編集する”