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“無のためのスケッチ”

 比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優が何らの稽古もなしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチははいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわち、無のためのスケッチであるからである。

——ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 そしてその素描によって写しとられる像とは、どんな姿をしているのか?
 どのような差異と反復による手の動きがなされ、その引かれた線はどのようなドローイングとしてあらわれるのか?
 弱くそしてときには強い力が加わって輪郭線をなし、限りなく白に近いところからどれほどの濃さへとその明暗を描きわけるとも、習熟をもたらすこともなく、ただ繰り返されるだけのデッサンを、我々はどのように見ることができるのだろうか?

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2021-04-06 08:18(UTC+0900) @TSD /TT
2021-04-07 13:51(UTC+0900) @TSD /TT

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