記事一覧
“ALCHIMIE DU VERBE”
Ce fut d'abord une étude. J'écrivais des silences, des nuits, je notais l'inexprimable. Je fixais des vertiges.
— Arthur Rimbaud, Une saison en Enfer
しじまのよわにさとり ゆめまぼろしにまじろぐ
“無のためのスケッチ” のように
« A mo
“the Milky Way Captured”
☞The Entire Plane of the Milky Way Captured in a Single Photo
古代ギリシャの哲学者デモクリトスが天の川 (Via Lactea) は遠く離れた星々の集合体だと説いたのは、紀元前400年ごろ。
その説が最初に確認されたのは、イタリアのガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天の川を観測した1609年のこと。
1755年にはプロイセン王国の
“Mellow Yellow Feelの謡ひ”
淡い 思い
記憶 イメージ
行く宛も なく
浮かんで 消えた
Hello Mellow Yellow Feel
——《Mellow Yellow Feel》歌:CORNELIUS 作詞・作曲:小山田圭吾
ゆっくりと謡われる ひとつひとつのオン
はじめのオトと それに連なるオトと いったん分断される言葉たち
予想された言葉と 思いがけない言葉が
それは歌ひではなく、まるで謡ひのように浮かんで消え
“呪術的な「而」と散在する「今」”
しかあれども、道理この一条のみにあらず。いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。時もし去来の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山渡河の時、この玉殿朱楼を呑却せざらんや、吐却せざらんや。
——道元『正法眼蔵』第二十 有時
直線的時間でもなく、円環的時間でもなく
——
“{Maeda+Iwabuchi+Takemitsu}Teshigawara / abe”
☞Waltz – The Face of Another (1966)<安部公房『他人の顔』
Ich schaue dir ins Gesicht,
das vor mir steht, doch erkenn' ich dich nicht mehr.
Wo bist du?
Wo bist du,
von gestern, du?
——《ワルツ》歌:前田美波里 作詞:岩淵達治 作曲:
“Chopin/Delacroix/Sand+Maurice”
Chopin n'écoute plus. Il est au piano et il ne s'aperçoit pas qu'on l'écoute. Il improvise comme au hasard. Il s'arrête. Eh bien, eh bien, s'écrie Delacroix, ce n'est pas fini!
— Ce n'est pas commen
“不在なるものの輝き”
何よりもまず人は見えてはいないものしか創造したりはしないものだという事実があるからであり、もし、リュミエール兄弟が、開かれた未来の中空に鮮明な輪郭で描かれた映画のイメージを認めていたのだとしたら、「グラン・カフェ」での最初の興行など永遠に延期され続けていたはずであって、だから映画は、その幼年期の夢想をむさぼっていたベル・エポックの幸福な昔から、映画の暗がりといった容易な比喩では把えてほしくないより
もっとみる“La Nuit étoilée の塗り残し”
☞Vincent van Gogh “The Starry Night” Saint Rémy, June 1889 MoMA
le 25 mai 1889, à 4:40 précisément.
[ V1.a ]
2021-04-15 15:34(UTC+0900) @TSD /TT
2021-04-22 14:59(UTC+0900) @TSD /TT
“@Bologna”
わたしたちが実際に見ているもの以上に、もっと抽象的でもっと非現実的なものは何もない、とわたしは信じています。わたしたちが人間として対象世界について見ることのできるあらゆるものは、わたしたちがそれを見て理解するようには実際には存在していない、ということをわたしたちは知っています。
——『ジョルジョ・モランディの手紙』
何を見ているのか。何を描いているのか。
何が繰り返されているのか。何が潜んでい
“変奏と変項と多様性と”
芸術、科学、哲学は、それよりももっと多くのことを求めている。すなわち、それらは、カオスのうえにもろもろの平面を描くのである。それらの三つの学問分野は、宗教のようなものではない。というのも、傘〔の内側〕にひとつの天空を描くために、宗教は、わたしたちのオピニオンがそこから出てくる根源的臆見(ウアドクサ)の諸形像としての、神々の系譜や、唯一神のエピファニーを援用するからである。哲学、科学、そして芸術が欲
もっとみる“無のためのスケッチ”
比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優が何らの稽古もなしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なこと
もっとみる“偏在と遍在を編集する”
偏 11画
扁は片開きの網戸の形。扁に片方、ひとつの意味がある。[説文]八上に「頗るなり」とあり、「かたよる、ひとつ、一方、ひとえに」の意味に用いる。偏枯とは半身不随の意味であるが、洪水神の禹は中国全土の治水のために東奔西走し、偏枯となったと伝承されている。
遍 12画
扁は片開きの網戸の形。扁はかたよる、一方の意味であるが、歩く、行くの意味のある彳・辵を加えた徧・遍は「あまねし(広くゆきわたっっ