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ミュージカルカンパニーOZmate「ガランドウの虹」

3連休。私の仕事には基本的に何の関係もないはずなんですが、どういうわけか休みになっておりまして。
今年Covid19罹患して以降明らかに体力も集中力も落ちていて(Covid19のせいなのかトシのせいなのか定かじゃないですが)、この前日に観劇した「空の驛舎」も翌日の「1mg」もかなりぼんやりした状態で観てしまいました。残念、というより、せっかく命がけで(この時節ですから大げさでなく)舞台に上げてくれたみんなに申し訳ない。
先に言い訳しちゃうくらいには自分の状態が良くない、そのなかで感じたことを書かせてください。←どこまでいっても言い訳です。ごめんなさい・・・。

さて、今回のOZmateミュージカルカンパニー、今回と同様前回もここに感想を書いてまして。日付を見るとちょうど1年前に拝見してるんですね。正確には1週間ずれてますけど。
その時の内容を読み返すと、「歌には、ダンスには、伝えるチカラがある。」というようなことを書いてました。
今回の公演は前回のいわばファンタジーと打って変わって、1941年日本を起点とする、俗に言う「戦争もの」です。
開演前に「ロシアとウクライナの戦争が・・・今やらないとと思い、上演にこぎ着けました(すみません言葉はうろ覚えです)。」という挨拶がありました。
正直に言って、ことに日本で、この種の題材を舞台表現として扱うのは非常に難しいと、この作品を観劇する以前に、常に思ってまして。
これはどちらがいいという二元論ではなく、例えば恋愛を描いた作品、恋愛に限らず誰かへの愛情を描いた作品に対しては観客側のハードルはグッと下がります。主人公の心情をダイレクトに自分の感情で上書きできるから。擬似的にですが直接体験できるから。それは(すべての人が、ではないですが)自身の過去の体験に近似値を見いだすことができるから。
戦争、社会、政治を扱った作品ではどうでしょう。
「戦争が起きる」。「するとこんなことが起きる」。そこからの帰結としては「だから戦争はダメ」の場合も「戦争にはこんないいこともある」の場合もあります。某百田尚樹「永遠の0」なんかは後者ですね。今目の前に展開していない、しかも主語が大きすぎる問題にまともに感情移入しようとしたら、少なくとも理解しようとしたら、いちど自分の感情を、日常生活(一例として恋愛や家族を挙げてもいいでしょう)から引き剥がして、市役所でもいいし投票所でもいいし議会でもいいし、日常生活(といわれるもの)と少し遠いところに置いてみる必要があると思うのです。もろもろ要因はいっぱいありますが、第一義的に戦争を起こす(と決める)のは政治家ですから。政治家のいるところをまず想像する必要があるでしょう。およそとっつきやすいとは言い難いですよね。
もちろん作劇側もそんなことは百も承知ですから、その作品の中にとっかかりとして「恋愛」「仲間」「親子」というような「日常生活(といわれるもの)」を配置するわけですが・・・。

ここからはあくまで私見です。偏ってます。煽りだとも思います。
たとえば。
もしあなたが何かのSNSをやってらっしゃって、誰か政治家・政治評論家・政治学者・ジャーナリストのアカウントをフォローしてますか。菅義偉や安倍晋三、志位和夫、山添拓、枝野幸男、有田芳生、菅直人、・・・。
「表現として」戦争・政治・社会を扱った作品に、観客としてまっとうに対峙しようと思ったら、最低限これくらいの情報を、少なくとも「聞いたことがある」くらいは言えなきゃいけないと思うんです。
(中盤と最後に「ガランドウの虹」があなたに与える影響について少しだけ触れるので、申し訳ないんですが今はとりあえず煽られておいてください。)
一概には言えませんが、戦争に限らず「社会」や「政治」を日常会話に取り込む文化を日本人が普遍的に持っていない。つまり、これらを表現として扱ったときに、考える材料として取り込める素地を持っていない。だからまず取り込めるように砕いてやる必要がある。
これを言い出すとおそらく義務教育のあり方から論じなきゃいけないと思うので今は省略します。いずれどこかで語れれば、くらいに思っています。

だいぶ話が大きくなってしまいました。
「ガランドウの虹」です。
昨年の感想としての「歌にはチカラがある」をよすがに拝見しました。
偉そうな言い方をお許しください。
前段で延々述べた観客の理解力・共鳴力の助けとして、「歌」「ダンス」がどれくらい威力を発揮してくれるのか。
限界も感じましたが、同時に大きな可能性も感じました。
描かれる情景が「(戦争によって)引き裂かれる家族/仲間」「ふとしたきっかけ/情熱/執念によって再会」という、比較的とっつきやすい内容であったことも確かに大きいのですが、その瞬間の観客の共鳴力を大きく増幅してくれたのが歌でダンスであったのも紛れもない事実です。その結果、「どうして『戦争』などというものが起きた/起きるのか」「『戦争』で失われるものは何か」といった、「日常生活(といわれるもの)」から少し距離のある内容にもある意味力づくでしかもスムースに連れて行ってくれる。こちらも気づくと内容の深みに嵌まっている。語弊のある言い方ですが、心地よく「騙して」真相に近づけてくれる。

ここからはいったんネガティブな感想に落ちます。
真相に近づけてくれたとして。それが事実であったとして。
それでも、観客側にそれが「事実である」と認識する能力がなければ、「戦争が起きた」「(その結果として)人が死んだ」「悲しいね」で終わってしまいます。今回の「ガランドウの虹」の観客がどれくらいその能力を有しているのかもちろん判りません。客席を見渡してみた限り、涙を拭っている観客は一定数いらっしゃったように見受けられます。その涙が「『悲しいね』の涙」なのか、「『悲しいのはなぜ?どうすればいいの?こうすればいいのにどうしてそうならないの?』の涙」なのか。とても気になるところです。この2類型はあくまで観客側の能力に起因します。「歌のチカラ」があったとしても、それが観客の能力差をすべてキャンセルしうるものではありません。「限界」と述べたのはこういう理由です。
それでも。
「能力」を左右することはできなくても、観客に「気づかせる」ことはできるはず。
「悲しいね」の先はなんだろう、と、漠然とでも感じさせることはできるはず。
その感性をより強く揺さぶることはできるはず。
「気づいた」観客から「変わっていく(可能性がある)」のだとしたら。
「気づく」「変わる」観客をひとりでもふたりでも増やす可能性はとても高い。

概論的な書き方になってしまいました。「ガランドウの虹」の感想じゃないですね。ちょっとくらいはこちらに触れたいのですが・・・。
劇団員さんみんなあらゆる角度から「戦争(とそれに関連するあれこれ)」を徹底的に勉強されたと、あちこちの施設に見学に行って話を聴かれたと伺いました。作・演出の辻井奈緒子さんももちろんそうだと思います。この作品は再演だと伺っていますので、初演時にも相当な情報収集と分析が行われたのでしょう。今回の再演に当たって、さらに情報はアップデートされているでしょうし、新たな分析によって解釈も変わってきているかもしれません。
で。
おそらくその蓄積がそうさせたのでしょう、演技にも、そもそも台本レベルでも、「迷い」が感じられました。意図的に「迷わせている」のではなく、「書き手が迷っている」「演じ手も引きずられて迷っている」。そう感じたのは私だけかもしれませんが。ついでに「意図」がどの程度迷いに介在しているのか、今ははかりかねています。
あくまで一般論としてですが、台本や演技プランが意図せず迷うのは好ましいことではありません。「ガランドウの虹」に関しては、冒頭に書いた私の体調を差し引いても、いくぶんストーリーを見失ったところがありました。
その意味で少なからず不完全燃焼を感じています。ごめんなさい。これは私が認識した事実です。
で、なぜこのような迷いが起きているのかと考えたときに、「蓄積」というのが大きな原因になっているのでは、と今のところ考えています。
その辺り、終演後ウンヨンさんと少し(と思ったら思いのほか盛り上がってしまったんですが)お話をして。そこでかなり自分を整理することができました。概ね以下のような内容です。
もしこのお話が、「戦争で死んだ。悲しい。だから戦争はダメ!」という、(それはそれで正しいんですが)シンプルなお話であれば迷走することはなかったかもしれません。
じゃあ、「どうして戦争が起きるの?」「人が死ぬ/人を殺すって悪いことだよね?その大原則はどうして無視されるの?」「『国』がなくなったら生きていけないよね?自分ひとりが我慢すれば(死ねば)みんなを守れるんだよね?」「(実際はともかく)今日本は/僕たちは優位に立ってるんだよね?じゃあ戦いに行っても簡単に帰ってこられるよね?」「○○が攻撃されてるよね。じゃあ○○を守るために攻撃してる側を攻撃しなきゃ。」
あまりに多様な価値観と、その根拠となる情報の錯綜・氾濫・虚偽・・・。
これは戦時中に限ったことではなく、現在にも脈々と流れ続ける「ひと」のあり方に関わる「問い」であろうと思うのです。情報源が溢れかえっている現在ではなおのことです。

唐突ですが、第2次大戦敗戦という悲劇を経て、日本国憲法というものが制定・施行されました。おそらくこの憲法の中で一二を争うほど著名な条文が9条だろうと思います。引用しますね。
――――以下引用
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
――――引用以上
今更言うまでもないことですが、武力・軍事力の衝突であった戦争と、それによって自国民のみならず多くの人的被害を出した悲劇(犯罪と言ってもいい)への反省として、それ以外の解決方法と併せてもっとも効果的であろう「武力の放棄」を謳ったものです。ごくごく単純に読めば、「日本は軍事力を持ってはいけない」と読めなくもないですよね。というか、素直に読めばそうとしか読めないと思います。(実際はそうではない、ということは後述します。)
「戦争はダメ!」と教条的に唱えるなら、この解釈で十分です。
別段の議論が必要ですが、「世界中から戦争をなくすんだ」という憲法前文の理想がすぐに実践できるのであれば、この解釈が正解です。(理想ではありますが、僕はこの考えを支持しています。)
でも現実は。
世界中で軍隊を持たない国の方が少数ですよね。
今ならロシアとウクライナ、でも話題に上らなかっただけで、世界で戦争・紛争が「なかった」瞬間を探す方が大変なほど、武力衝突は当然のように起こり続けています。
もしこの憲法の理念通り軍事力をすべて手放している、つまり現在の自衛隊すら存在しない21世紀の日本であったら(だって自衛隊なんて議論の余地すらなく憲法違反なんだから)。もっと言えば、この憲法の理念に賛同する国や地域がたくさんある21世紀の世界だったら。
自分の国を守る=「自衛」の必要すらなくなりますよね。
個人的にはそうなってほしいと強く願ってるんですが、現実的には不安を感じる人の方が当時も現在も多数派なのでしょう。
条文の第2項をご覧いただければ、「前項の目的を達するため、」という記述があります。「芦田修正」と呼ばれる、憲法制定の最終段階で追加されたものです。ごく簡単に言うと「国際紛争解決のため」じゃなければ、「自衛のため」であれば、「戦力を保持してかまいませんよ」という解釈が可能になります(正確には「戦力」ではなくて「自衛力」です)。なので日本には「自衛隊」という軍隊があります。
日本その他による「侵略戦争」であった第2次大戦が「自衛戦争」を発端としている、という致命的な矛盾を考えれば、「戦争に自衛も侵略もあるか!」という根本的なことに行き着いてしまうと思うので、この議論もまた別段で深める必要があるんでしょうね。
それとは別に、「ガランドウの虹」に話を戻します。
国レベルで、これだけの迷走を、それも戦後70年にわたって続けてるんですから、作劇・演技レベルで明確な解答がでると考える方がどうかしている。迷わない方がどうかしている。
その意味で、書かれた辻井さんも、演じられた皆さんも、「ちゃんと」迷ってくれていた。そのことが逆説的ですが嬉しい。

ここまで書いてみて、今までいくつか見てきた「戦争もの」との違いを。
「アベコベ」と表現されていたと記憶するのですが、主人公たちが戦後(おそらく1950年代から60年代にかけてでしょうか)にタイムスリップします。情報統制の戦時中から表現(報道)の自由が保障された戦後へ。そこはバラ色の自由に満ちた時間ではなかった。情報統制の主語が大本営から資本主義に換わっただけで、正確な情報は能動的に、あるいはかなり頑張って、時には無理して取得しに行かなければ得られない。そもそも得ることすらできない可能性も高い。
不勉強ながら、この点に言及した「戦争もの」を初めて観ました。
これも冒頭に触れた教育の問題、世界の中での日本の言論の透明性(「報道の自由度ランキング」)、SNSに氾濫するフェイク情報、国会においてすら繰り返される虚偽答弁、主要報道機関への圧力の疑い・・・。
シーンとしては現在の日本を暗喩してますし、シチュエーションとしては現在がその当時と地続きであると明喩しています。
新鮮だったし、描き方としては見事だなあと。

で、繰り返しになるんですが、これだけ明晰な台本であるにもかかわらず、なおかつこちらに「モヤモヤ」を残してくれる。
拙い私の文章力でどこまで伝わったか判らないのですが、少なくとも戦争に関して「何が正しいのか」という問いが――もうちょと絞って「戦争はいいことなのか悪いことなのか」「なぜいいのか/悪いのか」という問いが成立するのだと仮定して、その普遍的な答えは戦後70年間という時間とすべての人類の叡智を結集しても導き出せていない。
その上で。
「ガランドウの虹」が私に突きつけた答えは、いや、問いは、
「おまえの残りの人生をかけて考えろ」
あるいは
「いっしょに考えましょう」
という、すごく前向きな「モヤモヤ」だったのだろうと、すごく勝手に思ったりしています。

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