無事終演~その1:「朗読って」

2022/03/22 21:11、ようやく今これを書き終えました。
書き始めたのは2022年2月27日夜、2本目の試演会を終えて帰宅してからです。このときに半分以上は書けてたのですが、その日は途中でいったん終えて、急転直下抜け殻状態に陥りまして。
3月上旬、中旬と今日、そして今日の脱稿に至ります。(註:「脱稿」以降修正に取りかかったのですが、いつの間にか本公演のほうの稽古が始まったり何やかんやで、公開したのは今日2022/06/10です。)
ゆえに時系列として若干の前後があります。ご容赦ください。

武藤芸能社Vol.0(試演会公演)
「光と虫」「米屋は無事か」

2022年2月20日:スペースコラリオン
2022年2月27日:伽羅倶梨スタジオ

無事、終演しました。
たぶんこれを書いてる今、みんなも帰宅途上ですから、厳密には「おうちに帰るまでが公演」なんですが。

ひょんなことから「演出」という大役を仰せつかりました。
演出などということを試みるのは実は何度かありまして。
でも直近ではすでに15年くらい前、ごく小規模な二人芝居。
関わりを持ってくれてる高校の演劇部で「演出っぽい」ことをしたことが何度か。
その前は学生の頃ですからおおかた30年前です。

誇れるほどではないにせよ、自分としても「ある程度は」と言えるくらいには演劇での実績を重ねてきました。しかし、6人(実際には20日と27日でキャストの入れ替わりがありますから延べ9人)もの、既にどこかで実績を積んできた演者さんを相手に「演出」などということを企てたのは実質初めてと言わせてください。
ほんとに大それたことをやらかしたもんだ。
案の定キャパオーバーです。言わんこっちゃない。

それでも、機会をくれた武藤芸能社:武藤豊博さんに深謝です。

今回の公演/試演会では「光と虫」「米屋は無事か」(ともに伊地知克介さん作)を扱いました。このうち中村が演出を担当したのは「米屋は無事か」です。

今回の企みは、「朗読公演」・「リーディング公演」と呼ばれるものです。
「呼ばれるもの」とは言ったものの、「(いわゆる)演劇」「朗読」「リーディング」って何が違うの?というのは今も考えてたりします。
「(いわゆる)演劇」に対しては、声を除く身体表現=視覚情報にどれだけの比重を掛けるかである程度の説明は可能だと思うのですが、じゃあ「朗読」と「リーディング」って何が違うの?
何となく、ですが、「手許の台本からどれだけ目を離すか」=「観客の視線誘導の多寡」=(結局は)「視覚情報の露出度」なんていう大雑把かついい加減な腑分けに落ち着いてしまいました。
この腑分けで言うと、当初の目論見として、中村が担当した「米屋は無事か」は「朗読」でした。できるだけ台本から目を離さずに、できるだけ視覚情報に頼らずに、声だけで情景をお客さんに提示する。

結果として、一定程度の視覚情報は含有させることにしました。厳密な「朗読」ではなかったと思います。
それは当初の目論見から外れたものでしたが、同時に、正解のひとつでもあったと思っています。

強がりや言い訳ではなく。
「声」の情報・印象をできるだけ効果的にお客さんに伝えるために、それ以外の情報をシャットアウトする必要はない。
むしろ積極的に利用しよう。
「演劇」「朗読」「リーディング」
いずれの相違も、僕にとっては結果論でしかありませんでした。
その上で、それでも、「米屋は無事か」は「朗読劇」であったと思ってます。
出演者全員の「声」「言葉」を、本番の段階で最大限に引き出すことには成功したと、「声」「言葉」にこだわることはできたと、そう思うから。
企画の初期段階で「『朗読』と銘打つからには『声』『言葉』で勝負します」と大見得を切りました。
「試演会」という、時間的その他の制約を前提とした公演でしたが、それを差し引いても、少なくとも「声」「言葉」をつたえることに関しては、満足のいく作品になったと自画自賛させてください。

「声」「言葉」での「勝負」、あるいはこだわりに関して、少し書かせてください。
ちょっと自慢になりますが、中村は役者として30年キャリアを積んできました。客観的な評価はできません。中村が対応できる作品できない作品がありますし、そもそも「どれだけできたから一流」なんていう指標があるわけでもありません。それでも、ごく一部のみなさんからは悪くない評価をいただているという確信は持っています。
で、その評価は、おもに前述の「演劇」と分類されるジャンルでの評価です。視覚情報に依存する部分が小さくありません。それでも少なからず「声」「言葉」には自信を持っていました。
今にして思えば慢心ですね。

で、5年ほど前、今所属している「ボズアトール」というボイスタレント事務所の門を叩きました。
オーディション的なものに参加して、審査員(今も世話になっている事務所の先輩方です)からいただいた言葉が「『箸にも棒にも』ということはないなあ」というものでした。
そのときは「え?」と思いました。
何がだめだったのかさっぱり解らず、自信/慢心だけを打ち砕かれました。
何となく理解できてきたのはレッスンを受け始めて1年以上経ってからでした。
僕は確かに「声」「言葉」を大事にしてきました。
で、それは「僕にとって」大事にしている、ということでした。
「聴く人にとって」大事にしているわけではなかった。
僕自身がどんなにいいと思って発した声・言葉であっても、聴く人にいいと思ってもらわなければ何の役にも立たない。
「こんな意図で」発した声・言葉の「意図」が聴いてる人にどう伝わるか。
ここ数年で僕があらたに獲得した技量です。

充分ではないにせよ、現時点で僕が持ってる「伝える」技量を、今回の公演、それに先立つ試演会でどれだけ発動できるか。
いうまでもなく、発動させるのは中村ではなく、舞台でお客さんと対峙する演者のみんなです。従って中村の仕事は、「伝える」技量を演者に「伝えて」お客さんに「言葉を」「伝えてもらう」ことです。
その仕事をどれだけの精度でこなせたか。
中村の処理能力を「試す」ことはできました。
公演稽古に先立って、昨年末から何度かワークショップ的に技量の共有を試みたのですが、そこを含めてようやく及第点は取れたかな、と感じています。
一定程度、技量を伝えることはできたのではないか、と。
根拠としては、2日にわたる試演会で、演者のみんなから「言葉」や「情景」が伝わってきたことが挙げられます。
完璧、とは到底いえません。
でも、みんながあれだけ応えてくれたのは、何とか中村の伝え方が何とか合理性を保てていたからであろうと思っています。

後日オンラインでの打ち上げで聴かせてもらった話ですが、劇場入りしてから手の空いたメンバーが、楽屋で台本とにらめっこして、稽古中に書き込んだメモを読み返したり新たに書き込んだりしてくれていたそうです。たぶんそのときホールにいたであろう中村はその光景を目撃していないのですが、そんな僅かな時間を使って応えようとしてくれた、食いついてくれたみんなに、心から感謝します。

その感謝の言葉を、と思って書き始めたのですが、すでに大概な文字数になってしまいました。

その2に続けようと思います。


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