自分の欠片が落ちていた


1カ月ほど前、団地を通り抜けるときに「懐かしい気持ちだ」と感じる瞬間がありました。
こんなフレッシュな気持ちが自分に残っていたんだ・・・感動を覚え。すぐに路肩にバイクを停めると「人間っつーのはいつまでも人間だ」とスマホにメモを残しました。

さて、こメモが何を意味しているのか。あえて説明させていただくならば
占い番組なんかを見ても「どうせ嘘だ」とすぐそっちに軸を考えてしまう心に残っていた何かを信じたいという心。ギリギリ残っていた懐かしい気持ちが浮上したのだと思うのです。


見かけた団地





忘れかけた心。



さて、今では最近は後輩から手を握られても「セクハラになってしまわないかな」と心配が勝ってしまうし、休みの日にダル〜と目覚めても老後のためにと始めたランニングは死ぬ気でする。そんな中年男性の成れの果てです。

そんな僕がそのとき実感したのは、何か忘れているモノがあったということでした。

手ごたえ


10代、20代のときから暮らしが変化したことは自覚をしています。だけどその過程で失うモノがあるだなんて思っていませんでした。団地で懐かしいと思ったとき「・・・でも、これって何なのだ?」と立ち止まりました。
フレッシュな気持ちが残っていると嬉しかったのは確かですが、別のところでは、何か失っていることに気づいた。
そしてそれを取り戻すには時間がかかるとも思った。

お仕事


その頃、6年に1度ある介護・医療の同時診療報酬改定があったので、それの説明に向けて資料作りをしていました。
やり甲斐はとてもあって、ここで店舗のみんなと法令文の解釈を共有しておけば、職場環境が良くなると思いました。
前日も、前々日も、前々々日もそれが自分のやるべきことだ、と夜21時くらいまで残業をしていた。

気を抜けば「どう説明しようかな」と考えてしまう始末。

そんな忙しさの中で、社会で役割を全うすることこそが人生で得られる彩りだと思っていて。楽しかった。
それこそが10年前の自分と変わったところです。

他人の言葉を借りるのは甘えになると思うのですが、この感覚をまだうまく説明できないのでマツコ・デラックスさんが口にされた言葉を拝借したい。

若者と討論をするような番組のなかで、働きたくないと主張をする若者に対して「社会で誰かの役に立つことほど幸せを感じることってあるの?それだけが人生における唯一の幸せじゃないのかー!!」といったことおっしゃられていました。

確かにそうだす。
今となってとくに思う。

年齢を重ねるほどに、人生の前と後ろを見えるようになって人生というものに意味はないことに気づいた。
社会のなかで自ら頑張るモノを見つけることこそ、やりがいになるのだと思う。
何もしなければ人生はただダラダラと過ぎていく。

しかし、
そんな僕は、今丸1日休みをどうぞ、と渡されてもなにをしたらいいのかわかりません。
そんな社会人になっている。

そして
ふと思い出したのは、いつだったかの夏休みです。

深夜の公園で


ふと思い出したのは、ずーっと昔。

いつだったかの深夜、やることがなくてビリヤードとかダーツとかのあるインターネットカフェに入って、友人5人とチームで遊んでいたのだけど、途中で友人がカップ焼きそばを食べたい、と言い出して、ちょっと休憩するか、とそれぞれにテーブルでダべっているときに「あっつ」という声が聞こえて、みんなで見に行くと、買ったばかりのカップ焼きそばを湯切りをするのに失敗して、友人が排水溝に麺を落として「うわー」と言いながら、それを拾っていた。
「あー、きたねえ」
「うわ、ちょっと触手が見えた!!ゴキブリじゃね?」
そんなことを言っていたのだけど、謎に楽しくて、ゲラゲラと笑ったのを覚えている。

その翌日、小さな公園で「きのこ椅子」と呼ばれる固いベンチに座って、それぞれ外灯の明かりの下で虫がブンブン飛び回っているなかべラベラと喋った。
とある友人はブラック企業に勤めていて、「残業が夜10時まで終わらないんだよ・・・」と言っていた。
みんなで「なんで辞めないんだよ」と言っていたりした。

ふと、そんなことを思い出したのだけど、あの頃あった「自分らしさ」というものを無くしていた。

そんな欠片が、ふと団地の中にあったのでした。

終わり。

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