イギリスに留学した徳川家達の話②

こちらの続きになります。今回こそ家達にはイギリスに行ってもらいます。

6月に横浜を発った家達は8月14日にイギリスに到着。25日にはロンドンからエディンバラへ移動したことが松平春嶽宛の手紙(明治10年8月30日付)に記されています。いわく、「小生義去二十五日英国龍動相発シ去二十六日無滞蘇格蘭以丁堡え到着仕候」(「松平春嶽関係文書」)と。「龍動」=ロンドン、「蘇格蘭」=スコットランド、「以丁堡」=エディンバラですね。

春嶽は松平確堂とともに家達(=徳川宗家)の後見人を任されていたこともあり、家達はことあるごとに春嶽に手紙を送っていました。写真の交換もしているようです。

ただ、到着直後に日本から静寛院宮(和宮)(14代将軍・家茂正室)の逝去の知らせも届きます。戸籍上は祖母にあたるんですかね? 家達は留学中のため、臨終にも葬儀にも立ち会うことはできませんでした。

静寛院宮は徳川宗家にとっても皇室にとっても重要な人物であったことは周知の通りですが、このことはまた50年後に色々と話が出てきます。といっても、これは別の話なので、今はとりあえず先に進めます。

留学中の家達は英語をはじめとする語学の勉強に励み、そして日本の動向を常に気にしていました。今と違って手紙の配達はもちろん、ニュースの伝達にも時間がかかるので、例えば、出立時には未決着だった西南戦争の動向などの情報を春嶽に聞いています。

……予ハ朋友ヨリ七月三十日我天皇陛下東京ニ還幸セシヲ聞ケリ、予ハ西郷ノ一揆速ニ終ルヲ望ム、伯父君ハ西郷ノ一揆ニ付何カ新聞アリヤ……(明治10年9月25日付書簡、「松平春嶽関係文書」)

偶然にも、前日の9月24日は城山に政府軍が総攻撃を仕掛け、西郷が死去した日であり、恐らく家達は周囲の日本人、あるいは春嶽からの次便で西郷の死去、西南戦争の終焉を知ったものと思われます。

また、翌年の大久保利通の暗殺を知った家達は、次のように書き送っています。

…… I am very sorry to hear that Mr. Kakudo Matsudaira’s son had died few months ago, & I am also sorry to hear that Mr T. Okubo has been assassinated.(明治11年7月7日付書簡、「松平春嶽関係文書」)

「数ヶ月前の松平確堂の子の死去と大久保利通の暗殺のことは悲痛に堪えない」といった趣旨を述べています。家達は大久保のことをどう見ていたのか、これはとても興味あるところ。
ちなみに、この頃になると家達は学修の成果の披露も兼ねて英文の手紙を書くことが増えるのですが、受け取った春嶽が英文を読めたかは不明。というのも、家達の英文書簡については、日本語訳も同時に残されており、これは周囲の人が春嶽のために翻訳したのではないかと考えられます。

家達はさすがに徳川宗家の当主といったこともあり、お招きが多かったとのこと。日本でもこんな記事が。

徳川家達(亀之助)君ハ英吉利龍動へ着されてエヂンブルグへ転居されたが同君ハ旧将軍家の跡だといふので彼方でも招待とか此方でもお招きというとか夫ハ夫ハ大そう尊敬され贈りものも多いから相応なお礼もしなけれバ成らず夫が為に思ひの外に入用がかゝります(『読売新聞』明治10年11月27日付)

交際費が嵩んでいることが報じられていますが、留学の費用はどう工面したのですかね?

まだ語学のこと以外、家達が留学中何をしていたか全然話が進んでいないのですが、分量が長くなるのもよろしくないので、とりあえずこのあたりで。

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