「常識を疑え教」の人々。
さて、健やかでしょうか。
旧Twitterでもfacebookでもほぼ毎日どこかで
と常識に親でも殺されたのかというくらい常識を目の敵にして常識を破壊したがっている常識crusher(志望者含む)が増えていますね。
常識を疑うことが常識になりすぎてもはや何が常識でなにが常識でないのかもわからないくらい、彼らは常識を見つけると我先に疑うわ叩くわそれはもう大変なもんです。
もともとはとてもいいことなんだろうと思います。
新規性のあるプロダクトも社会課題の解決も、どこかで常識として根付いているものを一旦捉え直す、ということはもちろん大事なんですよ。
が、「疑うこと」、「壊すこと」が前提になってしまうといやいやそうじゃないでしょう、ということなんですね。
今現在SNSに跋扈している所謂「意識高い」層なんかは「常識は壊すもの」という常識のもとに皆同じようなことばかり言ってるわけです。
常識が常識になったプロセス、歴史、文化、これまでに迎えてきた様々な画期。
そういうものを無視して
と常識警察と化してよってたかって常識を「塗り替えよう」とするんですね。
そう、塗り替えようとするんです、自分達にとって都合の良い常識に。
常識警察は過去や歴史を学ばないことが多いように見えるんですね。
だから「これは変えないほうがいい常識」、「今はこの状態に留めておく方がいい常識」という精査を全然しないんです。
とどのつまり常識を疑え教の人々のほとんどが「常識を疑う俺カッケー」なだけに見えるんですよ、というか、だいたいそう︎。
こういう常識を疑え教が増殖すると、本当に歴史も文化もプロセスも画期も知ろうとしたうえで、常識を疑うプロセスも必要に応じて踏まえながら新規性を模索する「ちゃんとした人」まで胡散臭く見えてしまうんです。
同類に「固定観念をぶっ壊す教」もいます。
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