アフィリエイター周瑜の歩み④-久しぶりの入院付き添いで走馬灯のように思い出しので書いてみた-
ツイッター(@D4Csuperdragoon)では言ってるんだけど、今、五ヶ月の娘が入院しているので付き添いをしています。
乳幼児の入院は付き添いが原則24時間体制で必要。
これ、シングルマザーで近隣に親や祖父母がいない人は地獄だろうなと思います。このようなケースをヘルプできる仕組みも必要だと感じたので、そこも今後のビジネスか、NGO的な課題にしようと思いました。
前回の記事の続きをば
前回までは、会社をクーデターで解雇され、アフィリエイターになり、数ヶ月で40万か50万の報酬を得たところで、宮崎に住む義弟がバイク事故で意識不明の重体との一報が入ったところで終わりでした。
今日は、今も入院付き添いをしているので、そのことが思い出しやすくこうして娘のベッド脇で筆を取っています。
やっと稼げるようになったアフィリ生活だったが・・・
朝の5時に奥さんの携帯が鳴り響き、弟くんが山道でバイク走行中に対向車が急に曲がってきて衝突!
そのまま体をバイクごと投げ飛ばされ近くの民家のコンクリ壁に激突。
脳震盪、脳挫傷?、全身骨折というとんでもない情報が伝えられました。
そこから2時間半後の朝8時前には、僕たち夫婦は宮崎空港に着。
この時に「人間の本気の行動力はすごいな!」と変に実感してしまいます。
だって、電話が鳴った後すぐに、奥さんに「スグにスーツケースに荷物詰めろ」「タクシー呼ぶから」「タクシー内で最速の飛行機のチケット確保」「伊丹空港着」「飛行機へ」という流れを一瞬で実現できたのですから。
俺自身が夫婦で旅慣れているのもありますが、ノウハウがあっても中々と実行できないもので、やはり追い込まれて急に迫られれば、人はポテンシャルを発揮するものだということです。
これを知ってからは、俺はヤバい時ほどイケるなという変なメンタルをもつようになりましたw
宮崎生活スタート!アフィリエイターの醍醐味はこれ。
宮崎へ着き、速攻で市内の大学病院へGO。
そこで待っていたのは、義母と義妹の二人。
田舎というのは過酷なもので、重症患者を受け入れらる施設は少なく、宮崎市内から2時間から3時間離れた場所での自宅周辺での事故にも関わらず、当然その家族も自力で移動を強いられる。
ICUに入ったきり全く回復しない義弟。
12時間ほど、病院の詰所にいただろうか。その中でも椅子一つとPC1台で仕事できる俺は、奥さんとその家族を気遣いつつもひたすら記事を書いていた。
これがアフィリエイトの良いところだ。月数十万円の稼ぎを維持しつつ、移動しながら仕事するブロガー。(ヒトデさんより俺のが早いんとちゃうかw)
さすがに病院で丸一日過ごすと、さすがに疲れもたまる。俺が病院近くのホテル2室予約して、義母義妹と俺たち夫婦で交代の付き添いを申し出て少し休めるようになった。
合間の時間を縫って仕事をし、またその仕事の内容の説明を義妹にも行った。
なぜか?
実は義妹は車椅子生活をしていた。そして、義母は数年前に義父に旅立たれている。足の悪い娘と生きるか死ぬかの瀬戸際の息子、もし生還しても五体満足ではないだろう。
それを考えると、スグに俺たち夫婦と一緒に暮らすか、彼らが生きていく術を確保しないとと思った。
車椅子だってPC1台でアフィリ出来るじゃん!
病院にいる時にアフィリエイトの概要や俺の報酬画面を見せて、俺がこれで食べていること、義妹にも覚えれば幾らかのお金は稼げることを説明すると素直にやってみるとなった。
病室で仕事はしてもらえなかったが(彼女用のPCもないしね)、その先でPCにSiriusをインストしてあげて簡単なHTMLのペラサイトの量産などをその後に手伝ってもらえるようになった。
初めての外注さん確保!
こんな大変な時に非人情だと思う人もいるかもしれないけど、後々とても奥さんのご家族に感謝してもらっているから、まぁいいじゃないか。
3日ほど義弟の意識は戻らず、俺たち夫婦も義母義妹も遠く離れた実家から通うこともままならないだろうから、その時点でウィークリーマンションを探し二部屋隣同士で借りられるようにした。
我ながら、気が効く義理の息子だろうw こうして、俺たちの宮崎看病生活が始まった。
一ヶ月の宮崎生活
義母たちと俺と奥さんの3交代制で病院に詰めるスケジュールを組み、毎日を過ごした。
付き添い中(といっても義弟は無数の管に繋がれたまま微動だにしないのだが)の横でカタカタとPCを叩く。慣れてくるとエロサイトも開いてしまえるから人間は環境の変化に対応できるのだ。
義弟の事故と怪我の内容はとても辛いものだが、良いこともあった。
宮崎市内のありとあらゆる旨いものを探しては毎日食べた。普通に宮崎に住んでいる奴より俺の方が詳しいんじゃないかってくらい調べて通った。
旨い飯と旅行と仕事が一体化した看病。
病人の気持ちはさておき、お金も確保し、義理の家族には感謝され、旨いものが毎日食えて、毎日新しい発見がある新しい街の探索が出来たことは、会社員ではなくフリーランスであったからこそ。
もちろん、たまたまなんだけど、この経験でリアルに
「どこでも仕事していけるな。」
と感じた。
脱・宮崎
事故から一ヶ月が経過し、依然として目を覚まさない義弟。
容体は安定していて、この調子だと複雑骨折をした箇所を意識が無くても再手術できるらしく、それがまだ少し先とのことになった。
そこで、義母のマンションを一ヶ月延長し、俺たち夫婦は一旦、大阪に戻ることにした。意識がないのは心配だが一ヶ月も死ななかったから、まぁ死なないだろうと慣れてしまった。
もう5年近く前のことで記憶が薄れてしまったが、再手術の前後で再び宮崎に入り一ヶ月を過ごした。
その時には義弟は意識を取り戻していた。
こんなに迷惑かけて心配させて殺してやろうかと思っていたが、やはり涙は出た。人の生き死にに無関心な俺だけど、ちょっとは人間らしさがあったようだ。
ちなみに、2度とバイクに乗るなよと言いつけて叱った義弟は退院後の半年以内にバイクに乗り事故をして骨折をし再び病院送りとなる。大怪我から生還しても、馬鹿は一生治らないのだ。
3月、4月を宮崎看病生活で過ごした後の7月に。。
あと少し。
もう一歩。
お!きたきた!
よっしゃぁ!!!!
7月の28日くらいだったろうか。アフィリエイト報酬が発生額だが100万円を越えた。
知り合いのアンコウさんが1000万以上稼いでいるのを側で見ていたので、100万は稼げるやろと思っていたが、思ったより気楽に稼げた気がする。
まぁ、自慢話ととってもらっても良いのだが、俺が言いたいのはこれだけ目まぐるしい体験をしてもお金は稼げるアフィリエイトやブログって、当時は最高だったんだなってことだ。
逆に言えば、俺はあの時もっとしっかりビジネスと捉えていい加減にしてなければ、今は月に億単位で稼いでいたのだ。
そんな風に感じているアフィリエイターが多いのが昨今のお寒いSEO事情だろう。
おっと!娘がもぞもぞしたので、尻切れ気味だが今日はここで終わり。
追い詰められたからこそ、このnoteも書けただろう。病床で頑張る幼子に感謝。愛してるよ。
次回予告
稼ぎ出したから調子に乗って全国行脚編!
ノウハウも大事だけど、人嫌いだった俺が実は人間大好きだったんだ!と知った最高の物語。
記憶が残っていれば書きますw
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