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おっとりベネチアの登場

 ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 世界時間』の第2章3節、『ヨーロッパにおける都市支配型の旧経済ーヨーロッパの最初の世界=経済』を読んでいきます。

外因によって檜舞台に登場

 14世紀の黒死病による景気後退と、イタリア北部の工業地帯の発展により、アドリア海と北海、フランス地域まで移動する必要が無くなったことが、ベネチアが世界都市として地位を占めることになった要因である。そのため、羊毛取引(カリマラ組合)から羊毛製造へと発展したのだ。

 不景気になると、身を屈めてこれまでの事業を縮小するのだが、イタリアにとってラッキーだったのは、身を屈めてもなお、前面にはアドリア海が広がり、そこは十分に活動的であったこと、さらに、すでに信用経済が浸透していたので、柔軟に変化することが可能であった。

ジェノバかベネチアか

 同様の条件を持つジェノバではなく、なぜベネチアだったのか?それは、隔たった全面の海を持つベネチアに対して、他の国との競争下にあるジェノバ、また、植民地政策によってともに発展してきた両都市は、何かあれば相手の息の根を止めるための戦いが必要になることがあった。その時までに、戦争は莫大なお金のかかる贅沢品だったが、ジェノバはまだ実行していた。一方、ベネチアは分別にとみ、危険を冒さなかった。それが幸いしたのだ。

 当時のベネチアの国力は、フランス、スペインに匹敵していた。経済的価値だけでもそうだが、これに税、陸上交通、植民地、海上収入などを合わせると、あらゆる国を抜きん出た。

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ベネチアにはじまる資本主義

 一説によると、資本主義はベネチアで生まれたと言う。一方、面白いことには、資本主義に関わる小切手、複式簿記、海上保険契約、定期海上便などのイノベーションは、フィレンツェやジェノバで生まれた。ベネチアは、それらをうまく活用したのだ。

 資本主義の技術や仕組み作りでは、ベネチアは先進的ではなく、むしろ伝統を大事にした。決してイノベーターではなかったが、ベネチアには資本主義に必要なものは、全てそろっていた。市、商店、倉庫、造幣局などの要素や、信頼を基礎にした金融システム、資本などである。ベネチアは、小さな村のように、互いに人を知っていて、それらを管理するシステムを持っていた。その中では、柔軟に組み替えたり、多様な仕組みが存在することができた。

 しかし、その村のような仕組みは、スケーラビリティがない。ビジネスの人的資本は、ベネチア以外から導入することが難しい。柔軟な風土は、固定的な取引の効率化を必要とせず、反対に企業システムでそれを維持するような考えも根付かなかった。そのため、次の都市へとバトンを渡すことになる。

Simon的に読み解くと

 Simonの晩年の組織研究の中で、強調されているのは、従順さ、分解可能性(near-decomposability) 、人工物のデザインである。ベネチアは、イノベーターではなかったが、外の知恵を取り入れるオープンイノベーションによって、資本主義を作った。それは、彼らの従順さによるところが大きいのではないか。また、組織風土として、物理的なつながりではなく、信用によって、ビジネスを如何様にも変化することができた。生物的に強い仕組みを持っていた。

 一方、自ら人工物を作り出し、インパクトを与えるというよりは、流通のハブとしての位置付けを楽しむおっとりした奥手だったのではないか。そのため、競争ではなく、協調を選択したと思われる。このように見てみると、日本はベネチアから学ぶことが多い。協調を基礎にする文化を持っていても、時代を導くことができる可能性がある。そのためには、従順で、良いものを率先して取り入れ試すことが必要だ。元々人工物などでの競争はお手の物の日本。外部からの知識を取り入れるオープンイノベーションは合っているかも知れない。

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