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探索的に革新的な変化を厭わないソフィスト、知識の漸進的な構築に携わる哲学者

 『ソフィストとは誰か』読書会も4回目、今回は3章「ソフィストと哲学者」を読み進めます。前回ソフィストが相対主義者であったこと、そのため既存の概念にとらわれなかったこと、その時代のアントレプレナー的な存在だったのではないかと、議論を進めました。今回は、なぜソフィストがそのような立場だったのか、時代背景も含めて議論します。

読書会の書籍たち

ソフィストの素顔

「神々については私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることはできない。」               プロタゴラス

『ソフィストとは誰か?』 p118

 冒頭のプロタゴラスの言葉は、今であればごく普通の意見として受け入れられます。しかし、あの当時のギリシャで語ったとなれば、相当の進歩主義者ではないでしょうか。ソフィストの代表格であるプロタゴラスは、この発言によって「不敬神」の廉で、アテナイから去りました。

 また、アテナイ市民という身分を持っていないこともおおかったソフィストは、生まれながらの身分制度や職業について受け入れることをしません。それよりも、その当時重要視されていた言論術を磨いて、世に打って出ていく、それによって、生計をたてるたくましさがありました。

ソフィスト vs. 哲学者

 2者の比較が、3章2節で語られます。思想的基盤が、相対主義・懐疑主義であるソフィストに対して、神の真実を明らかにする絶対的な心理の探求者の哲学者。不知を自覚し、「他人に悟らせる」お節介焼きの哲学者。それに対して、今を生きる術、徳、言論の力を頼りに、旅をして貢献に対して報酬を得るソフィスト。古臭い青黴の生えそうな書斎の片隅に佇む哲学者に対して、全てのことに興味を持つソフィストのなんとイキイキとしていることか。

 ただし、ソフィストの言論の力、弁論術は、使いようによってはただ虚しいものでもあります。ディベートに勝ったとしても、ただそれだけ。そこから何かしらの行動が始まることがなければ、ただのゲームに過ぎません。それに対して、哲学者は「個々の概念を正しく把握し、それによって正しい議論を組み立てて真理を追求する」ソクラテス由来のディアレクティケー、弁証法を重視します。議論が段々と深まっているあの感じが、哲学者たちの探求法なのです。

真か、偽りか?

 ソフィストの弁論の目的は、真理ではなく、快適さです。また、彼らの懐疑主義は、「人間は、けっして真理に到達することはできない」であり、相対主義は、「反論することは、不可能である」となる。つまり、物事は、その時のコンテキストによって、各自の認識によって、どのようにもあるということ、多様性を享受しているのです。一方それが、真理を追求する哲学者にとっては、「虚偽を語る」ということになる訳です。

 ある意味では、ソフィストこそ、発想豊かな新しい概念を作り出す学者を体現しているのかもしれない、と思いませんか?

現在の科学との接点

 ソフィストの姿は、伝統的な経済学の合理性のモデルに対して、限定合理性を提起したサイモンを思い起こします。その当時、サイモンの周りには通常の学問の主流から外れた人たちが集まって議論していたと言われます。それは、現在の常識と言われる理論の限界を見極め、それを打破しようとする活動だったのでしょう。ソフィストも、いる意味では当時の常識的なルールに立ち向かい、自分たちの求めてるものに忠実だったといえます。

 現在の科学者は、哲学者的な面だけではなく(真理を追求する)、既存概念に囚われず、役に立つことを目指すソフィスト的な面も持つ、いい意味でハイブリッド、いいとこ取りのようです。下に、サイモンの言葉を添えます:

人間と呼ばれる情報処理システムが、自分の理解を超えた複雑さに直面したとき、情報処理能力を駆使して代替案を探し出し、結果を計算し、不確実性を解決し、それによって(いつもではないが、時には)その日その日で十分な、満足のいく行動方法を見出すのだ。               Simon, H.A. 

Simon, H. A. (1979). American Economic Association Rational Decision Making in Business Organizations


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