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地中海文化の崩壊と復活が産んだ美食学

 ポール・キンステッド著『チーズと文明』、第4章地中海の奇蹟ギリシャ世界のチーズ チーズからギリシャの復活の歴史を紐解く。

地中海の夜明けを破壊した暗黒時代

 紀元前12世紀から始まる暗黒時代のことについては詳細はわかっていない。それまで、地中海沿岸では、フェニキアの祖先カナン人が海洋民族としての本領発揮をしていた。エジプト型の帆船に対して、紀元前2000年ごろから彼らは船底と竜骨を持つ帆と櫂で推進する船を操り、地中海を行き来した。それは、クレタ島、ミケーネ島などの地中海の島々を渡り歩き、異質な文化を吸収し融合した、海洋民族の時代だった。ギリシャは、ミケーネの栄光を糧に繁栄していた。

 それが突然消えたのが、紀元前12世紀に始まる暗黒時代だ。その理由には、ノルマン人を思わせる海の民の登場、鉄製の武器を持つドーリア人の侵入(これは現在訂正されている)、ヒッタイトの地震、気候変動など議論されているが、事実は判明していない。唯一わかっているのは、地中海は夜明けから初期状態に戻ってしまったということだ(ブローデル、地中海世界)。

新しい文化を融合して蘇るギリシャと地中海世界

 紀元前1200年ごろまで続いた青銅器文化が終焉を迎え、ミケーネ文明が崩壊、人を支えきれなくなったギリシャから人々は、東方のアナトリア(現在のトルコ周辺)沿岸部、キプロス島へ移動した。本来海洋民族であった彼らは、海上貿易へ乗り出した。それまでヒッタイトが独占していた鉄の精錬技術は、その帝国が瓦解したことによって、他に広まるきっかけとなった。また、青銅器時代の近東の楔形文字、エジプトの象形文字、クレタ島の線文字は、フェニキア人のアルファベットとなり、ギリシャ人に伝わった。フェニキアは、メソポタミアと地中海の中継地として、文化を繋ぎ伝えるハブとなった。

 紀元前8世紀半から7世紀半の時代、フェニキアと切磋琢磨したギリシャには、文明の東方化時代が訪れる。キンステッドは、ポリスは、東からギリシャに伝わったという。ポリスは、近東における都市国家の変形、中心にある都市部と周辺の農業地域から成る自治組織体であって、それがギリシャに導入された。守護神はポリスのアイデンティティであり、守護神への信仰が公私に渡って生活を支配、信仰と儀式を通じてコミュニティを一つにまとめる。近東の街の守護神アシュトレト、アステルテ、イシュタルは、セミ族の豊穣と性愛の女神(元をたどるとシュメールのイナンナ)だったが、ギリシャ神話のアフロディーテとなる。宗教を見ることで、新しい文化の一部を垣間見ることができる。

ギリシャの宗教の中で制度化されるチーズ

 ギリシャでは、もともと動物の生贄や捧げ物として、菓子、果物、パン、チーズ、大麦の粉、胡麻、オリーブオイル、蜂蜜をする習慣があった。多分宗教的場所であったと考えられるギリシャのポリスには、農業地帯から農民がチーズを街に持ち込んだ。その頃の食生活は、シトス(sitos、主食、質素な食物)と、オプソン(opson、補助食物、付け合わせ)であり、チーズはオプソンに分類される。また、水っぽいフレッシュチーズに比べて御供物にする固形チーズは贅沢品だった。

 ポリスの住民は、市内の中心にある公共の場アゴラで開かれる野外市場でそれらを売買した。その周辺の郊外では、小規模混合農業地での羊の飼育とチーズ製造が市場取引を目的として行われた。例えば、品質の良いチーズとして知られるキスノスチーズは輸出された。同様にキオス島で生産されたワイン、チーズはギリシャの市場からシリア(ギリシャの植民地)へ渡り、フェニキア人によってエジプトに届けられた。エジプトでは、ワイン33%, チーズ25%の輸入税をかけたが、エジプトの美食家の欲求を止めることはできなかった。その頃、チーズと並ぶ贅沢品には、エジプトの書物、シリアの乳香、クレタ島の糸杉、カルタゴの多色カーペットがあったという。

美味しいチーズの生産地シチリアは美食学を産む

 摩り下ろしチーズはシチリアの誇りといわれた。紀元前4世紀のシチリアは裕福で、贅沢な食事、洗練された文化で美食の中心地となる。その頃のミタイコスとヘラクレイデスの料理本や西洋美食術の父、アルケストラスによる長詩『ガストロノミア』には、摩り下ろしチーズの料理法が記されている。アルケストラスは、素材の良さを活かしたチーズの使い方を示している

人の創意工夫は、宗教での制度化、市場の交換を通じて位置付けられる

 キンステッドはチーズの歴史を描く。それらは宗教書や公の文書に現れる。それらを紡ぎながら感じるのは、チーズのバンダリーオブジェクトとしての役割だ。チーズは、個々人の創意工夫から生まれたイノベーションだ。それは、地元の宗教空間でお供え元となり、晩餐会で贅沢なオプソンとなり、市場で売買する中で、価値づけられる。チーズが宗教や儀式の制度に位置付けられ、地域の名産となることで権力者や経済力のある人にコントロールされるようになる。

 しかし、交換の場や権威付の元になるイノベーションは、いつもボトムから、物質文明から生まれるのだ。もちろん交換の場の情報通(フェニキア)になることも、組織階層のトップに立つことで優位性を得ることもできるだろう。でも、庶民が生み出したもの・チーズ、製法・道具・チーズの濾し器、それらを生かす日常の営みこそ、今の私たちの生活を創り出している。組織に位置付けられ、制度化され、文化となっても、人は工夫して変わることをやめない。この本は、チーズを通して、生活圏、地域、経済圏、政治・宗教のつながりを見ることで、イノベーションに生活感を持つことが可能になると、教えてくれる。

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