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『地中海世界』フェルナン・ブローデル - ローマ


 アウグストゥスからギボンにPax Romanaと言わしめた五賢帝の時代に頂点を極めたローマがなぜ崩壊したか?フローデルは、「歴史は地理的要因」と、それに関する経済的・社会的・文化的要因を外観せよという。

都市の出現の条件

 紀元前1000年頃から顕著になる人口増加、それは鉄器の道具の改良、それによる農産物の増産とういう経済的要因が、集中的な定住化を押し進め、原始=都市型文明を産んだ。鉱物資源を獲得するために、ギリシャ人が南イタリアに移動し定住した。昨年学会て訪れたイスキア島(写真)が最初の植民地だったという。

 次に起こるのが、《市場》の形成、平等社会から《分業化》、共有財産の《私有化》の社会変化。経済活動の拡大とそれを成り立たせるための、規模拡大のための雇用、貨幣の導入などの仕組みが、富の集中化を起こす。それは、階級への文化、貴族の時間の余暇と教育格差をもたらす。

ローマの誕生

 都市の条件に加えて、地理的条件、テベレ川の存在と、交通の用地としてのローマの立地があげられる。それによって、紀元前600年頃ローマは誕生した。都市の象徴は、中心に位置する広場と、周辺の境界線である。広場は、政治・宗教・経済の中心であり、後には隣接する地域の緩衝材になった。境界線の導入による周辺化は、階層組織の分化を促した。

 遠征によってますます拡大するローマは、職業的軍隊の創設と、軍事と政治に結びつきによって上位の抗争と、小さな都市国家の仕組みしが持たなかった下部からの突き上げによっていざこざが絶えなかった。

ローマ帝国主義の終焉

 紀元前のギリシャ文化の繁栄は、目を見張るものがあった。そこには平等で自由な文化があった。それがペルシャと交わり、ヘレニズム文化として地中海沿岸を包んだ。

 その優れた文化は、貴族階級の出現とともに、誰しも富を持つものにはアクセス可能になり、取得することができた。一方、都市下層民や、文化に興味を持たない職業軍人らには、関係が薄れてきた。つまり、ローマを成り立たせる文化は、借り物か、存在しなかったわけである。そのためローマがとった手段が政治的な仕組みの創造である。

政治的ルールによる規模の保存

 貴族と平民による政治紛争を得ための一つの仕組みが護民官、平民の権利を主張する器官である。土地政策、政治関与の政策などに取り組んだが、うまくはいかない。不満を抑えるためのさらなる拡大政策と、市民拡大によって、ローマ革命へと向かっていくことになる。

 宗教の浸透は、科学的な発見や自由な議論を妨げる文化の低下につながる危険がつきものだ。特に政治と宗教との関係は、それらを活用し、文化の深化を留め、硬直することはあっても、育てることはなさそうだ。東からの多様な宗教がキリスト教として根付くとともに、文化の暗黒の時代に突入した。

結局ローマは制度と建築?

 ギリシャが文化、科学、哲学を産んだとしたら、ローマは政治・制度で広大な地域を長年治めた。それに加えて、建物の標準化はローマが最初。世界最初のウィトルーウィウスによる建築書によると、すべてのもの、特に建築には、「意味が与えられるものと意味を与えるもの」が含まれていると。ローマの広場、道はそれを示していて、今なおその土地の収益源になっている。このこのからすると、ローマはスタンダードを産んだと言えるかもしれない。


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