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夜更けの思索宮

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時には哲学を、古代ギリシャを、あるいは皮肉やのイタリアの彼氏のような、ちょっといつもの場所をはなれて遊ぶ
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自由で人生に不可欠で時限的な「遊び」

 今回からホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んでいきます。今回は、「序章」と、「1. 文化現象としての遊びの本質と意味」です。序章の中で盛んに、ホイジンガの講演タイトルについて、「文化の遊び」とすべきところを、「文化としての遊び」に変えられて困ったという話が出てきます。この章のタイトルは大丈夫? 面白さを本質とする非理性的な遊び ホイジンガは、遊びを生物学的機能ではなく、文化現象として捉えます。科学的な方法を手段として、その本質を捉えようとします。これまでの遊びの定義、「

カントの「判断力批判」をデザインから読み解く

美を感じるのは人間だから カントは、表象(意識の中に現われてくるものやその内容)に対する3つの適意(快の感情)について議論する。その充足感の表現の違いを以下のように示す。 快適なもの → 満足する 心の傾きに関する適意 美しいもの → 意に適う 好みに関する適意 善なるもの → 高く評価し是認する、客観的な価値を認める 尊敬に関する適意  この3種類の中で自由な適意は、美に関する適意、「趣味」であるという。それは、感覚能力の関心も理性の関心も、わたしたちに同意を強制

きっと『政治学』を読まないとわからない『アリストテレスの世界観』

 前回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第9巻 愛(フィリア)について続き を読みました。最後の第10巻は幸福論の結論です。幸福に焦点を当て、人間にとって最高の善とは何かというアリストテレスの哲学的探究を深く掘り下げます。幸福に関するアリストテレスの言説は、徳、魂、人間生活における理性的活動の役割に関する彼の見解とニュアンスが深く絡み合っており、『ニコマコス倫理学』第10巻は、幸福の本質とその達成方法に関するアリストテレスの考えを集約しています。 最高善としての幸福 ア

『時』に生きるイタリア・デザイン-3: 「倫理的な観点」から認識されるイタリアデザイン

 第2回で多様なものを統一していくイタリアデザインについてみていきました。それができるのは、多様な考えの中でも一貫している、反インダストリー、反大量生産といったデザイナーの社会を見る皮肉的(irony)な視点です。戦後生まれたラディカルデザインは、そのものがもつ本質を再発見することを目指しました。今回はその後のイタリアデザインの展開についてみていきます。 イタリアのポストモダン宣言 1980年のベネツィア・ビエンナーレには初めて建築部門が加わり、ディレクターのパオロ・ポルゲ

『時』に生きるイタリア・デザイン-2: 「相違の中の統一性」を追求するイタリアデザイン

 前回読んだところで、1923年のミラノビエンナーレから1930年にトリエンナーレとなった後、1968年以降の開催が不定期になります。その後、2016年の第21回トリエンナーレから3年ごとに開かれています。この不定期になった部分が気になって、「4. イタリアのインダストリアル・デザイン、5. イタリアのインテリア・デザイン、6. デザイン空白時代」を読み進めました。 イタリア人にとってのデザインの意味 イタリアの建築家などが使うプロジェクトという言葉は、設計する・企画すると

『時』に生きるイタリア・デザイン-1: 歴史が紡いだ文化と現在を繋ぎ、とことん遊ぶイタリアデザイン

 今回は佐藤和子氏「『時』に生きるイタリア・デザイン」の読書会初回で、「序、1. 1990年代。モダンクラシックの風、2. 1930年代のイタリア・デザイン、3. 敗戦からデザイン黄金時代へ」まで読みます。イタリアは20世紀を通じて、モダニズム、ファシズム期のデザイン、戦後の復興、1960年代のデザイン革命、ポストモダンデザイン、そして21世紀の現代デザインへと移り変わってきました。英国、北欧、アメリカと比較すると、イタリアのデザインはその時代ごとの文化的、社会的、経済的背景

どのようにしたら正しく生きられるか?相互の等しさを基本とする愛で答えは出るのか?

 今回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第8巻 愛(フィリア)について を読みます。愛には「善に基づく愛」、「快楽に基づく愛」、そして「有用性に基づく愛」の3つがあると議論を始める巻です。アリストテレスは、快楽に基づく愛は、一層本物の愛に似ている。なぜなら、愛のうちに自由人らしさが多く含まれているから、といいます。彼の考える愛を読み解いていきましょう。 愛は計算づく!等しい交換が基本善に基づく友人は「共に生きる」間柄である、で始まる第5章には以下の様な箇所があります。

快楽のための技術はデザインだと、私は思う。アリストテレスは反対するけれど。

 今回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第7巻 抑制のなさと快楽の本性を読みます。「暇つぶし」から進化したBMX(Bicycle Motocross)は、遊び、快楽から生まれた新しい競技で、五輪に採用されました。この章ではアリストテレスは、抑制の中について科学的、客観的、普遍的な議論をしようとしています。が、最終的には、抑制のなさと関連が深そうに思われる快楽を排除することはできませんでした。逆説的な意味で、快楽、遊び、人にとっての有用性(、そのための技術であるデザインの大

ゴルギアスは何と戦っていたのか?それは、その時々の人々の魂

 『ソフィストとは誰か』読書会6回目、今回は6章「弁論の技法ーゴルギアス『パラメデスの弁明』」、7章「哲学のパロティーゴルギアス『ないについて』」を読み進めます。前章まで読み進める中で、「ソフィストが相対主義者であったこと、そのため既存の概念にとらわれなかったこと、その時代のアントレプレナー的な存在だったのではないか、さらにはデザイン的な要素もあるのか」と、期待が膨らんできました。前回は、ゴルギアスの代表的な弁論『ヘレネ頌』を読みました。しかし、実際のところ彼らは弁論を一時の

思慮なしに徳はありえず、思慮が備わると全ての徳が備わる

 今回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第6巻 思考の徳と正しい道理を読みます。この巻を読むと、ソクラテスやプラトンと異なるアリストテレスの温かさが感じられます。機会があったら読むのに、この巻おすすめです。 超過や不足ではなく中庸のための「正しい道理」 アリストテレスは、この間巻で中庸の深掘りをします。まず、魂の徳には、性格の徳と、思考の徳があり、この巻では後者を議論します。魂の理性的な部分は、数学のように他の仕方ではありえない諸原理をもつものと、ありうるもの(唯一の正

クールな相対主義者ゴルギアスの弁論は、役には立たない遊び

 『ソフィストとは誰か』読書会5回目、今回は4章「ソフィスト術の父ゴルギアス」、5章「力としての言論ーゴルギアス『ヘレネ頌』」を読み進めます。前章まで読み進める中で、「ソフィストが相対主義者であったこと、そのため既存の概念にとらわれなかったこと、その時代のアントレプレナー的な存在だったのではないか、さらにはデザイン的な要素もあるのか」と、期待していましたが、裏切られました。以下では、この2つの章で何か起こっているのか、説明しましょう。 ゴルギアスの生涯 ゴルギアスは、シチリ

ちょっと危ない公正と違法の正義が私たちを豊かにする

 アリストテレスの「二コマコス倫理学」第5巻正義と不正を、らんまんストーリーで解き明かそうと思う。第18週あたりから、大学へ行くことを制限された万太郎には、危機が訪れる。万太郎と田邊の関係は、私たちにアリストテレスの正義を読み解くヒントになりそうだ。 アリストテレスの考える正義 アリストテレスは、正義を社会的正義と、家政的正義(夫と妻の様に、2社の間に何らかの関係がある状態)とに分けて考える。そして、社会的正義を、科学的・客観的に正しいかどうかの判断のできる自然的なものと、

探索的に革新的な変化を厭わないソフィスト、知識の漸進的な構築に携わる哲学者

 『ソフィストとは誰か』読書会も4回目、今回は3章「ソフィストと哲学者」を読み進めます。前回ソフィストが相対主義者であったこと、そのため既存の概念にとらわれなかったこと、その時代のアントレプレナー的な存在だったのではないかと、議論を進めました。今回は、なぜソフィストがそのような立場だったのか、時代背景も含めて議論します。 ソフィストの素顔 冒頭のプロタゴラスの言葉は、今であればごく普通の意見として受け入れられます。しかし、あの当時のギリシャで語ったとなれば、相当の進歩主義者

時代の要請によって出現した詭弁家ソフィストは思想的には根無し草か?

 いよいよ「ソフィスト」の概要があきらかになる2章を読んでいきます。前回まで、哲学者が絶対的真理をもとめ対話するのに対して、ソフィストは相対主義者であり他の主張に対して、詭弁術を駆使して反駁するものとして描かれます。さらに、お金をもらって徳を教育し、通常はそれらを受けることができない若年で政治的な野望を持つ層から歓迎される指導者でもあります。議論を闘う術・プロセスにはたけていても、何を主張して闘うのか、徳そのものをどのように教育したのでしょうか? 詩的世界から現場に降りてき