見出し画像

研究不正と医療訴訟と真実について

僕は一度研究不正騒ぎに巻き込まれたことがある。研究不正といえば、STAP細胞の時に随分と世を騒がせた。ちなみにあれについては捏造で間違いないことが証明されているが、個人的には筆頭著者が自分の見つけた「真実」を提示しようとした結果だったのではないか、と僕は推測している。それは言い換えれば、科学的事実と、カッコ付きの「真実」とを混同した過ちの結果ということなのだが、それについてはまたいずれ書こうと思う。

さて僕がドイツにいた頃、日本の研究室の元ボスから連絡があり、研究室の複数の論文について、捏造であるとする告発文があったこと、その中に僕が著者の論文も含まれていること、ついては調査委員会が立ち上がるので資料(元データと実験ノート)を準備する必要があること、査問委員会には僕も出席する必要があるため、一時帰国の予定を立てること、などが書かれていた。僕はやっていた仕事をストップし、胃痛に耐えながら資料集めに奔走した。幸い、というか当たり前のことだが、告発の内容は全く荒唐無稽なもので、僕らは生データと実験ノートを提出し、査問委員会で説明し、委員会は捏造を否定、公式にもそう発表され、一連の問題は終わった。

但し、あくまで“公式には”だ。

その結果を承けてマスコミには、身内のかばいあいで査問委員会は名ばかりだった、とか、学会の重鎮を守るためにトカゲのしっぽ切りをしたとか(告発文で指摘された論文の中に、実際に捏造論文が見つかり、それは僕が所属していた研究室からのものではなかった)という論調の記事が出た。悲しいことにこれはマスコミやSNSといった、顔の見えない場所だけに限った反応ではなかった。その後たまたまクリスマスに日本から訪ねてくれた友人とドイツのレストランでご飯を食べる機会があり、僕はそのときに自分の巻き込まれた状況を話し、一緒に理不尽さに憤慨してもらおうと思ったのだが、おそらく時差ボケとグリューワインで泥酔していたのだろう、話を聞いた彼は僕に、「でも火のないところに煙は立たないって言うし、なにか疑わしいところがあるんじゃない?」と言い放ったのだった。

僕はこれを聞いて徒労感に襲われ、結局笑って流すしかなかった。そして、こうなると陰謀論とか、福島とか、地球平面説とかの話と一緒のやつだ、何を言っても何をやっても、もう相手の中での「真実」を変えることは不可能だ、という無力さを我が身をもって感じた。

同じことを医療の現場でも感じることがある。患者さんが一回何らかの理由で不信感を抱いてしまうと、それを覆すことは何をやっても不可能だ。検査は全て無意味になるし、良かれと思った治療も人体実験だなんてなじられたりする。

今や医療不信は蔓延し、医療事故とか医療ミスの裁判なんて日常茶飯事だ。ちなみに研究の分野でも、Pubpeerというサイトがある。ここは他人の論文の不正や捏造を指摘する国際的な掲示板で、毎日いくつものスレッドが上げられる。そういうことを血眼になってやって、他人を糾弾している人たちがいる。

こういう空気の中では、僕らは自分の身を守ることを第一に考えるようになる。だから、研究不正を疑われたときのためだけに結構な手間をかけて資料を集めておいたり、場合によってはリソースを割いて不正を疑われないような実験を組み、常に自己弁護できるように準備する。最近の研究ではそれが当たり前になってしまった。まだ研究ならその分の仕事量が増えるだけですむが、医療においては少し質が悪い。僕らは常に訴訟の可能性を頭の片隅に置きながら患者さんに接するようになって、例えば検査の説明そのものよりも、説明したことをカルテに書いておく事が大事だ、それが医者の義務を果たしていることの証明になる、という雰囲気になったりする。ひとによっては、検査で何か見つかるとやぶ蛇になって困るから、余計な検査はしないことにしている、などという本末転倒なことも(実際に)ある。

こういう空気が、結果として科学の発展を促進しているのか阻害しているのか、患者さんの利益につながっているのか、僕は甚だ疑問に感じる。困ったことに、その空気を作るのは、発信元である僕らとともに、受け手の人々でもあるので、負のスパイラルになってゆく。

信じていただきたいのは、僕らは基本、新しい発見を目指して研究しているだけだし、発表された研究成果も、純粋に科学的興味に基づいて見ている。それは性善説に根ざした行為だ。だから、人の論文の中にある嘘や粗をなんとかして探してやろう、とかいう考えも(少なくとも僕には)出てこない。患者さんを診るときも、普通に目の前の患者さんが良くなることを願って診療しているし、プロとしてベストと信ずる治療をする。それが本来当たり前の形だと思う。このことに殆どの医者は同意してくれるだろう。

真実なんて最後は相手を信じることでしか得られないし、それは性善説の元でのみ成立しうる。科学のためにも医療のためにも、僕は性善説を当たり前に唱えられる空気感の共有を願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?