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雑文・ドイツから鎌倉まで

生まれてこの方東京でしか暮らしたことのなかった僕が、留学のため日本を離れいきなりドイツのケルンで暮らし始めたのは2012年4月のことだった。出発した日の東京ではもう桜が咲いていたのに、到着した頃のドイツはまだまだ寒く、その日も気温は3度しかなかったが、金色の日差しが雨上がりの様な透明感をもって夕暮れの街を明るく照らしているのが印象的で、今でもその時感じた感覚をよく覚えている。それは今にして思うと、冬から春になるにつれ日照時間がどんどん伸びていく特別な時期の、とてもドイツらしい夕暮れだった。その後留学生活は6年に渡り、その間僕が受けた影響は想像していたレベルを遥かに超えたもので、それ以前とそれ以後とでは自分が生まれ変わってしまったくらいに思えるほどだ。ただそうやって自分のものの考え方や人生に対するスタンスが大きく変化していった一方で、日常生活で見るドイツはいつまでたっても外国のままで、僕は最後まで異邦人としてそこで生活し続けたように思う。それは決してドイツが排他的であったからではなく、僕がドイツにどこまで同化するかという飽くまで僕側の問題だった。幸いなことに日本に比べて遥かに移民受け入れてきた歴史が長いドイツには、異邦人をそのまま受け入れる、あるいは受け入れざるを得ない大らかさがあり、そのおかげで僕ら家族も異邦人として暮らしていながら周囲からそのままで尊重されているように感じていた。そうした暮らし方では自ずと周囲とは付かず離れずの距離感になるが、それでも気さくに声をかけてくれるケルンの人々の陽気さも手伝って、僕にとって異邦人としての暮らしは非常に快適なものだった。そればかりか、異邦人であり続けた僕にとっては例えば毎日の買い物すら最後までその非日常感を失うことは無く、ヨーロッパで旅行中スーパーに入った時のときめきというのは多くの人に共感してもらえるものだと思うけれど、そんな楽しみが毎日6年間も持続し続けるというとても幸せな思いをした。

そうして6年が経ち非日常で日常を送る生活がすっかり身体になじんでしまった頃、仕事が一段落したため日本の職場に戻ることになった。帰国してからしばらくは実家に仮住まいしながら、どこに住もうかと考えてみたものの、住み慣れた東京での生活にそのまま戻ってしまうのがどうにもやるせなく感じられ、ひょっとして観光地のような場所で暮せば少しは非日常的な気分で頭を錯覚させられるのではないかと考えた僕は、ここ鎌倉で家を借りることにしたのだった。海沿いの観光地でありながら、都心から乗り継ぎさえ良ければ1時間で通勤できるし、ついでに、街を下見したとき見た人々の大半が観光しながらゆっくり歩いていたので、その様子がなんとなくドイツに似ているように感じた(ケルンのドイツ人は概して非常にのんびりしていた)。

今鎌倉に暮らし始めて3年半になる。観光客に紛れる様に暮らし始めたつもりだったが、いくら鎌倉とはいえ日本人がドイツに住むほどの非日常性があるはずもなく、最初こそ感じていた旅行中のような新鮮さはすぐに毎日の暮らしの中で薄れていき、また僕の歩くスピードも日本らしい、およそ観光客を追い抜いてばかりの忙しないものになってしまった。  
おそらく非日常を日常としないまま生活していくためには、それまでの人生からよほどかけ離れた場所に住むか、常に移動し続けるしか方法はないのだろう。

しかしそうやって非日常がどんどん失われた一方で、住んでみて初めて分かるようになった鎌倉の魅力はますます増していくようだった。海が近い、山や緑も多い、少し足を伸ばせば新鮮で美味しい野菜や魚、肉が安く手に入る、東京への通勤も読書をしたり音楽を聴いたり仕事の下調べをしたりする貴重な時間で、特にコロナ禍以降は往復とも車内で座れるようになったので、時には足りない睡眠時間を補うこともできた(といっても大抵は早寝早起きをしているので睡眠時間が不足することはないのだが)。ちなみに日常的な渋滞を懸念する声をしばしば耳にするが、車が混雑するのは週末のみで、実は平日の鎌倉はむしろ店なども早々と閉まってしまうような静かな田舎街に過ぎない。週末にどこかへ出かける場合でも、こちらは鎌倉にやってくる観光客の車の流れと逆向きに進むので、むしろ渋滞に巻き込まれることは少ないのだ。

こうしたことが分かるにつれ僕は、今のこの日常をこの先も所有し続けたい、と日に日に思うようになっていった。実はドイツでの仕事が一段落した時、日本に帰国せずにこのままドイツで仕事を続けていこうかと真剣に考えたこともあったのだが、それでも結局日本に戻ることを決めた僕は、ドイツを去り難く思う一方で実は異邦人として生活することに少し疲れていたのかもしれず、その時から定住できる場所を意識下で求めていた様にも思える。というわけで僕は鎌倉に住み続けることに決め、そうと決めたからにはもう引き返せないように、鎌倉で家を建ててしまうことにしたのだった。

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