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第3話「ラズモフスキー」

アトリウム弦楽四重奏団「ベートーヴェン・サイクル」初日の演目は、第3番ニ長調作品18-3、第16番ヘ長調作品135、第7番ヘ長調作品59-1「ラズモフスキー第1番」だった。娘が海外に旅立った次の日が初日だったこと、そして初日が「ラズモフスキー第1番」だったことは、偶然が重なっただけだ。
当日までにベートーヴェンの弦楽四重奏曲を集中して聴いてみようと思い、ブルーレイを探してベルチャ弦楽四重奏団の全集を買った。これが僕の「ラズモフスキー」との出会いであり、弦楽四重奏曲との出会いと言ってもいい。

ラズモフスキー伯爵に献呈するこの3曲を一気に書き上げた1806年、ベートーヴェンは36歳、初期の頃から格段に進化した中期「傑作の森」に突入していた。フランス皇帝ナポレオンがウィーンを占領し、ロシア帝国をアウステルリッツの戦いで退け、神聖ローマ帝国が滅亡した年だ。ラズモフスキー伯爵はロシアのウィーン大使である。
これも偶然だが、3ヶ月ほど前の2月末、ロシアがウクライナに侵攻した。東欧の歴史を復習したいと思い、トルストイの『戦争と平和』を読み返していた。トルストイ36歳から執筆を始め、1805〜1813年のナポレオン戦争がロシア貴族の視点で描かれる。

音楽にせよ小説や絵画にせよ、作品が創り出された背景には、作者の心情に社会情勢や生活文化、その国の歴史が影響していると考える。時間と空間は繋がっているはずだ。そんなことを考えながら、サントリーホールのブルーローズに初めて足を踏み入れ、自分の席を確認した。

小説も絵画も、鑑賞はとても個人的であり、その時代へ思いを馳せるしかない。解釈は完全に委ねられ、その個人差も相当なものである。音楽は少しだけ違う体験ができる。演奏家が必要だからだ。演奏家がまた新たな解釈を披露することで、作品に新しい光が与えられる。僕たちはそれを、このサントリーホールという素晴らしい劇場で体験することができるのだ。

初めてのブルーローズ、初めての室内楽、初めての「ベートーヴェン・サイクル」。自分の格好が少しカジュアルすぎたかなとカフェコーナーでワイングラスを傾けながら、開演までの時間、「チェンバーミュージック・ガーデン」の100ページ近い立派なプログラム小冊子を読み耽る。レセプショニストに入口で手渡されたのだが、その充実した内容に感嘆していると、あっという間に1ベル。プログラムを閉じ、ブルーローズの自分の席へと向かった。

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