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第六章

急逝されたコンマスの代理も決まり、お嬢様の妹さまの参加となる。ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、さらにホルンもサポートメンバーが加わり、本番前日のゲネプロは実に重厚な音が構築された。特にティンパニとトランペットは、ベートーヴェンならではの音を創り出していた。
そこまで冷静でいられたわけではなかったが、音の厚みで少し気楽に弾けたのかもしれない。迷ったり立ち止まったりして、ここはもっとできるな、というところは本当に限られていた。今日、ホテルで楽譜を見れば、なんとかなる。この1週間、これで終わると思って、悔いのないよう毎日調整してきた。今日がその総仕上げだったが、思ってた以上にうまくできた。気持ちに焦りがないのは、本当にありがたかった。
1週間ほど前に、僕を誘ってくれた会社の先輩から、明日の演奏会で退団すると言われた。1ヶ月ほど前に、彼の別の演奏会を聴きに行って、ドアマンの手伝いをさせていただく。なんとなく、覚悟はできていた。無意識に、行かなければ、と感じたのだ。もちろん、コンマスのこともある。同じ会社の大先輩、楽団の大黒柱を失った哀しみは、僕の比ではなかったはずだ。
この最後の追い込みは、僕自身の小さな卒業試験の準備だ。思い残すことはない。できないところもあっていい。ただ、慌ててミスしない。まわりをよく見て、聴いて。そんなことを言い聞かせるまでもなく、ホテルでひとり、早朝のラウンジに向かうのも、不思議と落ち着いていた。戦いは本番前に、とっくに始まっていたのだ。半年前に、あのパート譜が配られた時から。

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