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【8/31】世の中とリンクするのをやめたい

少し前に読んでいた本の中に、「People are strange when you are a stranger(君が異邦人であるとき、まわりの人間は奇妙に見えるものさ).」って文章(文章というか、ジム・モリソンが歌っているThe Doorsの曲の歌詞だけど)があって、胸の奥をグリグリと削られるような痛みを覚えてしまった。

これはまずいな、かなりまずい。何がまずいかっていうと、最近の私は何かと「自分は間違ってるんじゃないか?」という思いにとらわれていて、Peopleがまったくstrangeに見えないのだ。むしろその逆。みんなこそが正しい人間で、自分は間違っている人間なんじゃないかって気がしてならない。The Doorsの歌詞にならえば、こういう思いにとらわれているとき、私は異邦人ではないのだろう。異邦人ではないということは、コミュニティの内側にいるってことで、人によってはそれは心に安寧をもたらす。でも、私はコミュニティの内側にいるとき、実に居心地が悪い。strangerとしてしか気分よく生きられない自分の性質を、呪うべきか祝福すべきかわからない。

なぜなら、strangerとはとても孤独な存在だからだ。自由であるかわりに、帰る場所はない。でも私が欲しいのは、やっぱり帰る場所よりも、不安定で足元もおぼつかない、あの「自由」ってやつなのだ。

(ひと昔前のアメブロみたいな曲解釈を書いちゃうが、The Doorsの「People are strange」は、歌詞だけを見るとひたすら自分が孤独な存在であることを嘆いていて、とても暗い。だけど、曲自体は陽気さもあって、口笛を吹いているかのように軽い。異邦人であることの孤独と、それによって得られるどこか気持ちのいい風が吹いているような爽快感と、それを同時に歌っている曲なのだと思う。「俺なんかどうせstrangerだからさ」という、明るい諦めとカラッとした笑いがある。)

私の頭はおかしいかもしれないけど、みんなだって同様に、あるいはそれ以上に狂ってるよ。この曲の歌詞みたいに、私はそう思いながら生きていたい。でも、今は残念ながら、あんまりそういうふうに思えない。People are strange when you are a stranger,People are strange when you are a stranger……

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(※「ん?なんだって?」と言っていそうな聖書の登場人物)

なぜこんなことになっているかというと、原因はすでに解明済みで、身も蓋もないことをいうと「日本から出られないから」である。外務省のサイトをちょくちょく見ては「あ、この国なら14日間の待機義務ないカンジ?」などと探っているが、状況がどう変わるかわからないので、家族も恋人もいない国に単身で、純粋な旅行で行くってのは今あまり現実的ではないだろう。原因はすでに解明済みだが、外的要因によって原因そのものを取り除くことはできないので、マジ、どうしよ!? となっている。「日本から出られないと気が弱くなって自分が間違ってるような気がしてきちゃうだって? ずいぶん脆弱な脳みそしてるんすね」と嫌味を言われたら、「むぐー」と思いつつもその通りなので言い返せない。いや、でも感染症のウイルスによって日本から出られなくなる日が来るなんて、去年だったら「それなんのSF?」って笑い飛ばしていたのは私だけではないはずだ。むぐー。

なんかさ、去年行ったアルゼンチン、スーパーで売ってるナスがめっちゃでかかったんだよね。ナスだけじゃなく、野菜がだいたい全部でかいの。日本のスーパーで売ってるのとぜんぜんちがう。「さすが南米、大陸もでかいし氷河もでかいし滝もでかいし野菜もでかい! 全部でかくてすごい!」と思ったんだわ。冗談みたいな話だけど。

私の頭の中には「ナスってだいたいこれくらいの大きさでしょ」っていう「ナスの普通」があって、それ以外のサイズのナスが存在するなんて、まさか想像さえしない。でも、アルゼンチンのスーパーで売ってるナスは、私の「ナスの普通」を粉々にしてしまった。以来私は、日本のスーパーに買い物に行ってナスを見ても、これはあくまで「日本で売ってる日本サイズのナス」で「ナスの普通」ではないんだと、そこで考え直すことができたんだよね。当たり障りがないのでしょうもないナスの話を例に出してしまったけど、これが私が海外旅行に行きたがるたった一つの理由でもある。私の中に無意識に入り込んでる「普通」を壊してほしい。異邦人でいさせてほしい。スーパーに行ってナスを手に取って、「ま、これが標準的なナスか? と問われたらそれは大いに議論する余地がありますね」とかを考えられる人間でいないと、なんか苦しくなってしまうのだ。私はそういう意味不明なことを言って、常にまわりをムッとさせる人間でいたい。

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(※アルゼンチンとブラジルの国境にあるでかい滝。ナイアガラよりでかい)

さらにまずいなと思ったのは、これは日本から出られなくなったせいなのか、単に私が日々をボーッと過ごしていたせいかはわからないが、自分独自の興味関心がなくなってしまったことである。

なんとなく、ウィリアム・フォークナーの小説をもっと読みたいなと思いついて、その理由は何かというと、Black Lives Matterと黒人差別の歴史についてもっと深いところまで考えたいと思ったからである。いや、Black Lives Matterと黒人差別の歴史について考えるのは全然やりたいのでフォークナーは読むんだけど、そういう、外部から与えられた課題だけじゃなくてさ。何もないところから湧き出た自分独自の興味関心。私以外は誰も考えないような問題。まわりの人間が「なぜそんなことを?」と不審がるような課題。

それから、フェミニズム。私もまた自分をフェミニストだと思っているが、昨今のフェミニズムは「お前も参加しろ」の圧がすごくて、「ちょ、ちょっと待って」となったりする。思想が異なるわけではないので参加したくないわけではないのだが、私は何においても「集団」が苦手だ。シスターフッド的なフェミニズムのあり方は、私の中の「異邦人でありたい」という欲望と、若干相性が悪い。誤解されたくないのは、私は多様性や世の中の不平等に無関心な人間では決してなくて、むしろかなり前のめりに関心がある人間である。ただ、その問題を解決するために「私は私のやり方でやる」という手法をとりたい。まあ、「家族なんてヤダ、あれはルールや法律と同義語だ」とかうだうだ言ってる人間なので、本当に、集団とか連帯とかが苦手なのだろう。

Black Lives Matterでもフェミニズムでもなくて、もっと、私しか考えないような、まわりの人間に不審がられるような問題。そういう問題について考えていたほうが、私の場合はむしろBlack Lives Matterやフェミニズムについて直球で考えるより、早くゴールにたどり着けるような気がする。急がば回れというかなんというか。「私は私のやり方でやる」ってのは、まあそういうことでもある。

だから、下半期ーーっていってもそのうちの2ヶ月がもう終わってしまったけど、2020年の残りは、世の中のいろいろとリンクしてしまうのを意識してやめて、もう一度私だけの問題について考えたい。「異邦人であること」は、私の人生の永遠の課題だ。

異邦人は旅をする。ただ、ポール・ボウルズの小説『シェルタリング・スカイ』にあるように、異邦人が旅行者になると、彼は「帰ってこない」。そこから発展して、ダメダメな今の私がダメダメを断ち切るために2020年の下半期を使って考えたいのは、「アメリカ文学における"逃亡”」である。ハックルベリー・フィンは、黒人奴隷のジムを連れて逃亡する。ホールデン・コールフィールドも逃亡する。『シェルタリング・スカイ』の主人公夫婦も、アメリカを逃れモロッコに到達する。小説には明示されていないが、一説には、彼らは「赤狩り」を恐れたのではないか……と考えられてもいるらしい。まあしかし私に言わせてもらえば、家族も友人も仕事も財産もすべてを捨てて逃亡する理由なんて、「ここではないどこかに行きたかったから」で十分だ。

というわけで、日本からはまだまだ出られない状況が続きそうなので、自分の眼球に食い込んだレンズを外す方法は自力で考えるしかないね。

もう一度、また異邦人になれたら、私はまわりの人間を奇妙に思えるだろうか?

شكرا لك!