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【3/6】家族も共感もロクなもんじゃない:『ミッドサマー』感想

以下は、アリ・アスターの『ミッドサマー』を観た感想である。なおネタバレについては、物語の核心部分に触れないよう配慮しているが、気になる人はたぶん観終わってから読むほうがいいかも。あと、アリ・アスターの前作『ヘレディタリー 継承』についても言及しているので、そっちもネタバレが絶対に嫌な人は読まないほうがいいかも。

そういうわけで、本題に入る。

『ミッドサマー』と『ヘレディタリー 継承』を観て印象に残ったのは、これがどちらも「家族の物語」であるということだ。いろいろなインタビューを読むとアリ・アスター自身も、映画の中で扱うテーマとして「家族」がとても重要であると語っている。ただしそれはもちろん、「どんなにつらいことがあっても、家族と一緒なら乗り越えられる。家族って最高!」という使い古されたイメージではない。家族こそがトラウマであり、家族こそが呪いになる。しかもそれは自分を生み出したものゆえに、簡単に逃れられるものではない……アリ・アスターが描くのは、そういう「家族」だ。どちらのイメージが正しい/正しくないではないけど、これまでポジティブなイメージが付与されることが多かった「家族」の、ネガティブな側面を描いている。

反転されるイメージ。

ポジティブなイメージが付与されることが多いものーーたとえば、白だ。白は清潔や純粋、素直さを象徴する色だ。おうちのリネン類を白で統一している人も、きっといると思う。

たとえば、明るさだ。日当たりのよい部屋を誰もが好むし、性格を「明るい」と評されるときは、100%ポジティブな意味。「太陽のような人」なんて称号をあたえられたら、これは大変名誉なことである。

たとえば、花だ。色とりどりの花はいつだって心を癒してくれ、部屋を明るくしてくれる。生きた花が一輪あるだけで、なんだか慰められる気がしてくる。

『ミッドサマー』は、白く、明るい、太陽の沈まない夏至祭においての、家族が重要な意味を持つ映画だ。祝祭は鮮やかな花々によって彩られている。人々は食事をともにし、笑顔で踊る。そこには一切の影がないーーはずなのに、物語はグロテスクで残酷なのである。

白は無個性で何を考えているのかわからない不気味な色と化し、異様な明るさは現実感を減退させ、花々は生贄とともに捧げる供物となる。そして、家族は主人公ダニーを救うなんてことはなく、周囲との不協和の原因となり、決して逃れられないトラウマの中に彼女を閉じ込める。通常はポジティブなイメージが付与されることの多いものが、『ミッドサマー』においては、ことごとく反転させられている。

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そして、なかでもいちばん興味深いのが「共感」だと思う。まあ「共感」は、すでにあまりいいイメージはないというか、メンタルの調子がおかしい人に付き合うのって大変だよねとか、他人に依存せず自立しようね、とかいう共通認識は十分にあるけど。

主人公ダニーとその彼氏たちが訪れるスウェーデンのホルガは、「共感」や「同調」を何よりも大切にする村だ。悲しさに泣き叫ぶ人がいたら、同じように泣き叫ぶ。痛さに悶えている人がいたら、同じように悶える。セックスで快感を得ていたら、同じように喘ぐ。こういう生活を続けていると、おそらく自他の境界が揺らぐのではないだろうか。私とあなたを隔てる壁が薄くなっていく。それは、ある種の人にとってはとてつもない癒しになるのだろう。眠るのだって、みんなと同じ場所だ。ホルガで暮らしていれば、人が孤独になることはない。どうでもいいけど、ホルガでも排泄はさすがに一人でするのかな。ルイス・ブニュエルの『自由の幻想』みたいに、みんなで揃って排泄をしていたら面白い。

(※『自由の幻想』では、排泄と食事が逆である。排泄をみんなで揃って一緒にし、食事は個室でひとり。食事はとても恥ずかしいことなのだ。)

みんな一緒、いつも一緒。悲しみは分かち合い、喜びも分かち合う。「共感」のポジティブなイメージのとおり、ホルガを訪れた主人公ダニーは、怯えながらも徐々に救われていく。ただ、ダニーがあのラストシーンのあとにどうなってしまうのか、彼女は本当に救われたのかは、考える余地があるだろう。「共感」ってやっぱり、ちょっと怖い。それは、私とあなたの間にある差異を無視して、無きものにしてしまうことだからだ。白く明るい太陽の祝祭、花に彩られた共感の村、ホルガ。だけどこの映画を鑑賞した人の多くは、あんな村で暮らすことはできないと目を覆うだろう。

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さて、以下は余談である。特に意図したわけではなく、『性食考』(赤坂憲雄、岩波書店)という本をたまたま読んでいたのだが、こんな記述があった。

1990年代の半ば、山形県のある村で、少年がはじめて春の熊狩りに参加した。少年は初熊狩りを祝して、捕らえられ解体された熊の毛皮を被せられたという。そう、『ミッドサマー』のあのシーンを、この話は彷彿とさせる。

少年は熊になる。なんのために? 人間に狩られる熊の身を擬似体験することで、生命をいただくとはどういうことなのか、思いとどめておくために。そう著者は分析する。

おそらく生き物の毛皮を被るって、世界のどこにでもあるわりと普遍的な儀式のひとつなのではないかと思う。その意図は世界でバラバラかもしれないし、推測の域を出ないかもしれないが、「変身」「擬似体験」という要素はまあまあ共通していそうだ。

ホルガの祝祭は恐ろしい。どんなに理性的な人間を装って「あれが彼らの文化なのだから、理解しよう」と言ったって、やはり現代社会に生きる私たちの多くは、あの村の慣習を拒絶するだろう。ただ、人間が主に狩猟と採集によって生活していた頃、文明が生まれる前は、あんな感じのコミュニティは世界各地にわりとあったのかなーなんて勝手に想像した。

私が『ミッドサマー』を観て絶望するのは、なんとなくだけど、「前もダメ、後ろもダメ」ということだ。現代社会は大きな欠陥を抱えており、不幸に満ちている。だけど過去にあった共同体やフォークロアなスタイルは、グロテスクで残酷だ。白がダメなら黒、というわけにはいかない。微調整を繰り返しながら、なんとかその中間に救いを探すしかない。だけど、(私の解釈では)ダニーも彼氏たちも、それはできなかった。

明るいもの、美しいもの、善きものの、イメージの反転。「家族」の持つ意味。現代社会と、その枠外にある共同体。文化人類学。すでにいろいろな興味深い批評を読んだけど、私がこの作品に抱いた感想は、だいたいこんな感じだ。

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