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【3/14】良質な物語と「考えさせられましたエンタメ」について、あとスルースキルとか

遅ばせながら西川美和監督の映画『すばらしき世界』を観てきたので、以下はその感想。なお、物語の核心には触れないようにしているがこういう感想文につきものの軽いネタバレはしているので、万全を期しておきたい方は観終わったあとに読むべし。でも結末を知ったからといってつまんなくなってしまう類の映画ではないので、万全を期しておかなくてもいい方は観てない状態で読んでもらっても大丈夫だと思う。

あらすじと「ガラスの壁」について

原作は佐木隆三の『身分帳』で、主人公は13年の刑期を終えて出所した元殺人犯の三上(役所広司)。刑務所に入る前は暴力団に関わっており、犯した殺人罪というのもそれ絡みのものだ。激昂しやすい性格で、許せないことがあるとヤカンが沸騰するようにカーッとなってしまい、物を壊したり周囲の人に暴力を振るったりする。

出所した三上は身元引き受け人の弁護士の助けを借りながらカタギの仕事を探すが、13年を刑務所のなかで過ごした人間が、勤め先を得るのはすごく難しい。生活保護を申請してケースワーカーに相談したり、近くのスーパーの店長と仲良くなって運送業の仕事を紹介してもらえるかもとなったり、どうにかして自立の道を歩もうとするが、どれもこれも「開かれているように見えて実は厳然と立ちはだかっているガラスの壁」みたいなものに行く先を阻まれ、心が折れた三上は一時、もとの暴力団員にもどろうとしてしまう。出所した元受刑者がふたたび犯罪を犯して刑務所にもどるケースはものすごく多いらしく、我々が暮らすこの「すばらしき世界」は一度正規のルートを外れた人間に容赦しないんだな……ということがよくわかる。映画のタイトルはやっぱり、西川監督の皮肉だろう。

とはいえ、一度でも反社会的勢力に関わったのは三上自身なのだから、シャバで仕事を得られないのだって自己責任では? という声もあるかもしれない。映画ではその声へのアンサーも用意されていて、まず三上は、芸者の母親の私生児として生まれ、養護施設で幼年時代を送っている。TVディレクターの津乃田(仲野大賀)が図書館で調べ物をするシーンがあるが、そこでわかることとして、幼年時代に親からの適切な愛情を受け取れなかった子供は大人になってから怒りを抑えることができず、激昂しやすい性格になってしまうことがあるらしい。三上は、根は悪くない人間なのだが、悪くない人間であるがゆえにスルースキルみたいなものがほぼ備わっておらず、喧嘩っ早くて行く先々でトラブルを起こし、結果、暴力団にしか居場所がない状況になってしまったのだろう。今となっては貧困や格差社会について言及するときに必ずいわれることだけど、この三上の生涯をどこまで「自己責任」にできるのだろうか。

良質な物語と「考えさせられましたエンタメ」について

と、ここまでがあらすじと、誰でも考えそうな表面上の感想である。

昨今、「貧困」「格差社会」「差別」などのテーマを扱う映画が多く、社会的な評価も受けやすい傾向があるように見える(?)ことは、私が指摘するまでもなくだいたいみんなわかっていることだ。『万引き家族』しかり、『ジョーカー』しかり、『パラサイト』しかり。で、映画でそういうテーマが多く扱われること自体は、世界の状況を省みれば当然なので、別におかしなことではない。ただ、こういう映画を観て「考えさせられました」「自己責任という言葉の意味についてもう一度問わなくてはいけないね」みたいな感想を持つことってめちゃくちゃ自分勝手というか、結局は三上の周囲にいた善良だけど凡庸な人々と変わらないな〜という気がして、すごく居心地が悪い。意地悪なことをいうと「考えさせられたなあウンウン、そしてこういう問題について考える私は崇高な人間でエライなあウンウン」と気持ちよくなるエンタメだよね。

断っておくと、これは西川監督『すばらしき世界』への批判ではない。むしろ映画自体は個人的にけっこう好きというか、真摯に丁寧に作られた作品だなと感じた。だからこれは作品への批判ではなくて、「映画」というエンタメが構造的に抱えている矛盾だ。『ジョーカー』を観に行ったときも思ったんだけど、『ジョーカー』的状況にいる当事者は二千円近く払って貧困がテーマの映画を観たりしない、たぶん。『ジョーカー』のときもやれジョーカーは甘えだのジョーカーを自己責任で片付けていいのかだのといろいろな感想が飛び交ったけど、なんか、欠席裁判の域を出ないよね〜〜〜と思ったのだった。みんな勝手だよな! 私もその「みんな」に含まれてるけど。

『すばらしき世界』で三上をネタにドキュメンタリーを作ろうとするTV関係者が映画のなかでちょっと露悪的に描かれるけど、映画を観ている我々もあれとまったく同じだと気づいたとき、まあ居心地は悪い。西川監督はきっとそれも計算して、ああいう登場人物を置いたのだろうけど。何がいけないんだろう、そもそも映画を映画館で観るのがバカ高いのが悪いのか!? 二千円ってやっぱりちょっとおかしいんじゃないか。でも無料で楽しめるエンタメも少なくないなか、二千円をぶんどる映画関係者のことを暴利を貪っているだのなんだのと批判できるわけもない、二千円も取れなくなったらきっと映画は死んでしまう。真摯な映画であればあるほど、良質な作品であればあるほど、観る者に社会について考えさせる作品であればあるほど、「考えさせられましたエンタメ」になってしまうという構造的矛盾を映画はきっと抱えていて、これは「貧困」とかなり相性が悪いと思う。社会的正義と収益性を両立するの難しいよねという話でもある。

「善良だけど凡庸な人々」について

「考えさせられましたエンタメ」について考えていると手も足も出なくなり身動きが取れなくなるのでほどほどにして、最後に、三上のもとに集まっていた「善良だけど凡庸な人々」に思いを馳せてみたい。三上をネタにドキュメンタリーを作ろうとするTV関係者、身元引き受け人の弁護士、ケースワーカー、スーパーの店長。このなかにいわゆる「極悪人」はいないし、みんなそれぞれの立場から一応は三上の社会復帰を応援している。激昂しやすい三上に、「シャバでは我慢が肝要だよ」「頭に来ても、ぐっとこらえて」と説く。スルースキルを身に付けないと社会ではやっていかれないんだ、と。

彼らが間違っているとは思わない。なんなら私も、三上ほどじゃないがヤカン沸騰タイプの友人に「あなたはスルースキルが足りない、もっといろいろなことをスルーできたほうが生きやすいよ」って言ったこと、実はあるし。

「三上の周囲に極悪人はおらず、みんな基本的には善良な人々である」と「社会は一度正規のルートを外れた人間に容赦しない」が両立していることが、矛盾しているように思えるけどこの世の真実といえば真実だ。みんな善良なので、正面から排除したり侮蔑の言葉を投げたりはしない。でも、善良な顔をしながら、親切に接しながら、ガラスの壁を一枚きっかり挟んでいる。だから超えられない。生活保護を受けている三上と比べるとおこがましいが、この「ガラスの壁」はもちろん私も、実生活で「ある」と感じたことが何度もある。女性であること、独身であること、その他もろもろゆえに。でもこの「ガラスの壁」は、阻まれている側からしか見えないらしく、向こう側にいる人間は「そんなものはないよ」って言う。私ももちろん、ある面では阻まれている側だが、ある面では阻んでいる側でもあるので、なんか、のうのうと暮らしている。こちら側にいるとき、「ガラスの壁」の存在に気づくことはほとんどない。

三上の周囲の人による「スルースキルを身に付けるんだよ」というメッセージは、「ガラスの壁を超えてこちら側に来なさい」という意味でもある。みんな善良なので、決して悪気はなく、三上を思ってのことである。でも、ちょっとネタバレになるけど、三上はガラスの壁をやっぱり超えられなかった。ガラスの壁を超えて向こう側に行けば一応は真人間として暮らせるけど、超えてしまえば何かが失われる。三上は超えることを選ばなかった(というのは、私の解釈だけど)。

「考えさせられましたエンタメ」への根本的な嫌悪感は払拭できないが、映画を観て思ったのは、結局は、ひとつひとつの事象を、真摯に丁寧に語っていくしかないってことだ。映画館の出口に募金箱置けばいいっていう話でも、たぶんないし。

真摯に丁寧に語るとは、自分の凡庸さを恥じることである。そして、ある局面では、「善良な私」というセルフイメージを捨てることである。コレクトな人間になんて、絶対になれない。というか、「私はコレクト」なんて思えることがあったら、それは凡庸な人間の証だ。

最後はなんかMY思想が入っちゃったけど、そういうことを思った映画だった。2021年自分内ベスト映画の候補である。


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