見出し画像

【7/26】コロナ禍で増した「家族」の存在感

新垣結衣や石原さとみみたいな美人を見て、「こんなに綺麗だったらきっと悩みなんてないだろうな」とため息をつく、なんてことは最近さすがになくなった。どんな美人だろうとイケメンだろうと、人間は、その人にしかわからない孤独や苦悩の中を生きているものだ。ただ、綺麗な人を見てそう思うことはなくなったものの、たとえばオードリー・タン氏みたいな華麗な経歴を持つ優秀な人を見て、「こんなに優秀だったらきっと悩みなんてないだろうな」とため息をつく、なんてことは未だにときどきある。そういうときはすぐさま、もう1人の自分から「そんなことないよ、きっと」とツッコミが入るのだけど。

Googleで検索した石原さとみの画像を見ながらため息をつくより、オードリー・タン氏のウィキペディアを読んでため息をつくほうが滑稽度が高い気がするのは、私だけだろうか。望んでなれるものじゃないという点ではどちらも同じだが、石原さとみよりオードリー・タン氏のほうが「お前には無理」度が高い気がする。かつて雨宮まみさんが、石田ゆり子さんのインスタを見ているとかわいすぎて言葉を失うとコラムの中で書いていたけど、私はたぶんそれと同種のやりきれなさや嫉妬を、オードリー・タン氏に向けている。あなたみたいに綺麗だったら私は望むように生きられるのに…と思うことはないけれど、あなたみたいな頭脳を持っていたら私は望むように生きられるのに…と思ってしまうことは、告白すると、ときどきある。問題はその「望むように」の中身で、私はいったいどんな生き方を望んでいるのか、ということなんだけど。

オードリー・タン氏のウィキペディアを読んでいると、彼女は「個人主義的無政府主義」の支持者だ、という一文につきあたる。

本当にそうなのかはウィキペディアなのでよくわからないし、しかも肝心の思想自体をよく理解していないので滑稽度MAX100%って感じだが、字面だけで判断すると、なんとなく私の思想と相性が良さそうだ。人と話しているとひしひしと感じるが、私はちょっと個人主義的すぎるし、また無政府主義的である。つまり、えー、今めっちゃ字面だけで考えてるけど、もっともっと、さまざまな規範や常識やルールから自由になって生きることが、私の望みなのだ。規範や常識やルール、いや、いっそ国家の法律からも自由になってしまいたい。ただ、そういったものから自由になるためには、頭脳がいる。能力がいる。ユーモアがいる。私にはそれらが何もかも、圧倒的に足りない。この世のすべての不自由なルールを軽々と超越して、裏をかいて、ハックして、ブラックなユーモアを交えながらみんなを驚かせてやれたらいいのにな。そんなふうに生きられたらと、オードリー・タン氏のウィキペディアを読んで、私は願う。滑稽だけど、あと別にオードリー・タン氏そんな生き方してないけど、まあ、けっこう切実に。

画像1

この4連休、ずっと1人で、家にいた(26日は仕事)。もちろんその理由は、感染者が増加している中で外出するのは気が引けたからだ。他、天気が悪かったからとか、あまり体調が良くなかったからという理由もあるけど。

私の見立てでは、7月のこの時期はもうとっくに梅雨明けしており夏本番、そして感染者は東京で毎日5〜10人、感染リスクがゼロになったわけではないがすっかり日常を取り戻している……といったところだったので、見立てちがいもいいところである。実際の7月後半は、感染者の増加はまったく衰えを見せず、観光業は悲鳴をあげ、在宅勤務の存在感はますます強くなっている。日常は、ぜんぜん戻ってきていない。

そんな中、外出自粛や在宅勤務の増加にともなって、「家族」の存在感も強くなってきている、と思うことがある。シンプルに、「同居人以外と会うな」と言われたらそこそこ上手くいってるカップルは結婚するだろうし、家にいる時間がとにかく長いのだから、その時間をともに過ごす家族の存在感も増すだろう。仕事のミーティングで同僚のお子さんや猫の顔が見れたときは、いつも、かわいいな、と思っている。ただ、それ自体はぜんぜんネガティブなことではないのだが、私にとって今のこの風潮はなんとも居心地が悪い。どうしてこんなに居心地が悪いんだろうと、思い悩むことがある。でも、「居心地が悪い」と思うこと自体が罪なんじゃないかという気がして、あまり大っぴらには言えない。

私も、一人暮らしをやめて、一緒に時間を過ごす「家族」がほしいのだろうか? 答えはNO。別に機能不全家族の中で育ったわけではないし、1人の時間が好きすぎて他人と共同生活を営めないタイプと思われがちだけど生活にこだわりがないのでおそらくそんなこともない。ただ、「家族」という言葉が私にもたらすイメージが、とにかくマイナスなのだ。規範、常識、ルール、法律。私の中では、「家族」はそれらと同義語だ。もちろん「ちがうよ、家族ってもっとあたたかいものだよ」という批判があれば甘んじて受ける。でも、こればっかりは思想上の問題というか、「こうだからこう、あなたは間違ってる/正しい」という地平では語れない話だと思うので、私も他の人の家族観を否定しないように気をつけるから、どうか私の家族観も否定しないでほしい。

(余談だけど、きっと少なくない人が家族の同義語は「愛」だと思っている。思想上の問題だから、もちろん誤りではない。一方、私の中で「愛」と同義語になるものってなんだろうな……と考えると、信条、思想、精神とかになる。私が、自分を個人主義的だと思うのはこういうところだ。ある意味では、私のほうがロマンチストではある)

コロナ禍の中で家族の存在感が強くなることは、人によってはあたたかみを増す出来事だろう。でも私にとっては、規範、常識、ルール、法律の存在感が増しているのと同じだ。街中でマスクをしていないと白い目で見られるとか、不倫をした芸能人が過剰に叩かれるとか、県外ナンバーの車が嫌がらせを受けるとか、そういうのと合わさって、「正しく模範的な人間でいなければ殺される」と日々、気が重くなる。

画像2

そういうとき、オードリー・タン氏のウィキペディアを読むと、ため息が出る。「私にもこんな優秀な頭脳があったら、いま、ここから抜け出せるかもしれないのに」と思う。

もちろんこれは滑稽極まりない話で、社会の中で生きる以上、どこまで行っても規範や常識やルール、そして法律はついてまわる。オードリー・タン氏だって、そこから完全に自由なわけではない。というか、私は5歳くらいの物心ついたときからずーっと「ここではないどこか遠いところに行きたいな」と思っていて、だから読書と旅行が好きなんだろうし、「いま、ここ」感が強い「家族」とも相性が良くないのだろう。でも、地理的な意味で日本からもっとも遠いアルゼンチンへは、もう去年に行ってしまった。もっともっと遠くに行きたいけれど、もっともっと遠くへ行くには、どうしたらいいんだろう。

もうだいぶ前だけど、文筆家の友人に「チェコ好きさんは、トリックスターになりたいんですね」と言われたことがある。うん、そうそう。もちろん今の私は完全に型にはまっており、発想が乏しく凡庸で、トリックスターとはあまりにもかけ離れているけれど。いたずらやブラックユーモアが大好きだし、既存概念や社会規範はぜんぶ粉々に破壊するか、テーブルごとひっくり返してしまいたい。パーティーで用意されたワインボトルは、柱に叩きつけてブチ割るためにあるんだからな。

はあ、でもそんなことをするにはどうしたらいいんだろう。規範、常識、ルール、法律、家族。それらは当然ながら完全に害悪ってわけでもなくて、私たちに安定と安全と安心をくれる。でも、私はもっともっと遠くに行って、自由を手に入れたい。今の私には想像もできないような世界を見たい。そのためには、今のこの状況は、重い、重い、重すぎる。

この重さを軽々と超えていける、頭脳なのか強さなのか知恵なのかユーモアなのか、そんなものが手に入ったらいいのにな。

2020年7月末、そんなことを考えている。

شكرا لك!