気づいていること(瞑想)と効かせれていること(筋トレ)

筋トレ界隈で『効かせる』という言葉を使うことがある。ダンベルなりマシンなりで強化したい筋肉にその運動は負荷がかかっているか/いないかを感じて身体を動かすことで効率的に効果的に筋肥大を目指すわけだ。

『効いてる』ことが分かるようになるには闇雲な重量のウエイトと回数でやらない方が良いと思っている。少なくとも初心者から少し毛の生えたような自分のようなトレーニーには。
持ち上げたり動かしたりするのに一生懸命になりすぎて、”結果的に”効いた状態になってしまうのは今回の目的ではない。
ダンベルやバーベルのフリーウエイトよりマシンが効いたのを感じるにはお薦めだ。なんたってマシンは特定の筋肉を鍛えるために設計されたマシンなのだから。

「マシンで」「最低負荷で」「丁寧に」「説明書き(※だいたいマシンに書いてある)通りに動かし」て、筋肉が動く様を感じて「運動によって筋肉に負荷がかかっていることがわかる」のを目的に動かす。回数は制限しない、効いてる筋肉に効かせれる回数をやる。
回数を決めると回数をこなすのに一生懸命になってしまう以下略。
その筋肉が疲れてくると他の筋肉を使ってその動作をしようとするのがわかる、が他の筋肉には仕事をさせない、目的の筋肉だけで動かせる限度までやって、これ以上はもうどうやっても無理だ、からあと一回やって1セット目終了。インターバルをとって2セット目、以下略。

この動きでこの筋肉に負荷がかかっていて、他の筋肉にはかかっていないことがわかるようになることと、手動瞑想を続けているうちに自分の心の動きや気分の上がり下がりに気づける仕組みは同じなんじゃないかと思っている。
手動瞑想で手を動かしてその位置に手がある、次の場所にパッと動かしたら動かしたところに手がある、をパッパッパッとその場その場であることを知る、あるなーとわかる、気づく。座ってやっている間ははじめのうちはずっとそれの繰り返しで、これでなにができるようになるんだろうと湧く疑問にも塗れつつ、やると決めたからという理由だけで続けていた。

ある時職場で自分の作成した資料について上司からフィードバックをもらった。自分では完璧ではないにしてもそこそこの出来栄えなんじゃないのと思っていただけにそのいくつかの、大小の、コメント全てが「ダメ出し」に聞こえ、すぐにそれは『作成した資料の否定』になって最後は【作成した自分への否定】に理解されて、ムカっ腹が立った。

腹が立ったぞ俺は、俺は腹が立っているぞと今の自分の気分がわかった時に顔がガーーーーっと血が流れて熱くなるのを感じた。そこからは思考の奔流、言い訳やら攻め口やら数百字はあっただろう言葉と思考が流れていった。そして流れていってる間にそれを輪の外から見ている自分もいた。

「あー、自分は今腹が立っているんだな」
「なにに腹が立っているんだろう」
「せっかく頑張って頭ひねりまくって考えに考え抜いた成果なのにそんなにけちょんけちょんに言わなくてもいいじゃないか」
「こんな大変だったのに労いもせず文句ばっかり言いやがって」
「※以下自己規制※」

でもう一度「うわー、俺めっちゃイラっとしてる」、「ん?イラっとしてるって今気づいてる」
が自覚した瞑想時以外での初めての自分の感情の動きへの気づきだった。

随分時間を開けてから、この気づいた状態っていうのが筋トレの「効かせているか」を気づきながらトレーニングしているのと同じなんじゃないの?となり、筋トレはやったらやっただけ身体は大きくなる→瞑想もやったらやっただけ気づいていられる頻度や時間が増えてくるはずだ、と確信して今に至る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?