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小説冒頭『救世主ドルミー』

 頬を撫でる風、潮の香り、さざ波の音。
 瞼いっぱいに日の光を浴びて、授乳の後の添い寝から目覚めた。

「みあっ」
 とっさに胸元を確認する。
 美亜は腕の中ですやすやと眠っていた。
 彼女の存在はもちろん、安眠している事に安堵した。

 娘の美亜は本当に寝つきが悪い。
 寝かしつけに3時間かかるのはざら。抱っこで2時間歩き、絵本を読み、歌い、乳を吸わせ寝転がる。
 ぐずる。寝ない。IMFも驚くほど敏感な背中センサーが瞬時に発動する。
 彼女にとっては睡眠=死の世界。
 私の頬を叩き、反り返り、ロックスター顔負けシャウトで大泣きをする。かと思えば、高度な呪文詠唱のごとく喃語を延々と喋り続ける。

 そんなワンオペ寝かしつけバトルに強力な助っ人が現れた。
 ドルミー。
 結婚前から可愛がっていた『睡眠』という名の黒猫。
 膨らむ腹に「ミヤァ」と声をかけ、妊娠鬱に苦しむ私を励ました金の瞳のナイスガイ。
 出張中の夫と会社に邪念を飛ばしながら難産を無事突破した私は、その声にあやかって娘を美亜と名付けた。
 出産後、ノイジーな新入りと孤軍奮闘している私を見つめるだけだったドルミーが、ある時急に大事なしっぽを差し伸べてくれたのだ。
 しっぽで鼻先を撫でられると美亜は泣き止んだ。
 しっぽを握らせると眠りについた。

 ドルミーはワンオペ育児の救世主。

 なのに、と私は見回す。

 見渡す限りの青い海。
 どう考えてもこのビーチは私の家ではない。
 何よりも、ドルミーがいない。
 夫の不在よりも、目の前の超常現象よりも、その事実がクライシス。

 これからどうやって寝かしつけたらいいのか。
 爆走する私の心音で美亜が身動ぎした。
 まずい、起きる。
 私は急いで乳を露にした。

「おや、美亜姫はお目覚めですか」

 驚いて顔を上げると、黒髪の若者が笑顔で歩み寄って来た。右手には光るナイフ、どす黒い赤で染まり風に翻るアロハ。

「だ、誰」

 私は美亜に乳を与えながら恐怖をねじ伏せて睨むように彼を見上げた。
 見返したのは金色の瞳。

【続く】

#逆噴射小説大賞2022