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日米交渉 1941

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youtubeとニコニコ動画にアップロードしている動画 「日米交渉-1941-」 の台本です。 台本の保存を兼ねて、有料ですが公開いたします。(1本 ¥100) ◎yout…
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記事一覧

日米交渉1941 -1- (草稿)

日本時間、昭和16年12月8日午前3時20分、ハワイ時間1941年12月7日午前7時50分頃。アメリカ合衆…

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日米交渉1941 -2- (草稿)

満州事変勃発後、日本の国内情勢に目を向けると、軍部による政治介入が顕著となります。 昭和…

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日米交渉1941 -3- (草稿)

日独伊三国同盟締結のおよそ一ヶ月前。昭和15年(1940年)8月26日。 東京都渋谷区南…

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日米交渉1941 -4- (草稿)

昭和16年(1941年)2月5日。野村吉三郎、新駐米日本大使は、アメリカ、サンフランシス…

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日米交渉1941 -5- (草稿)

昭和15年(1940年)11月25日。 2人のアメリカ人神父が横浜港に降り立ちました。2人の名…

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日米交渉1941 -6- (草稿)

野村吉三郎が、新駐米日本大使に任命された昭和15年(1940年)末頃、日本の外務省、アメリカ局…

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日米交渉1941 -7- (草稿)

寺崎英成が、在ワシントン日本大使館領事として赴任した3日後の、昭和16年(1941年)4月1日。岩畔豪雄は、外務省特別顧問として、日本大使館に、初出勤します。 岩畔の着任に対し、非外交ルートで共に活動をしていた、井川忠雄、並びに、在米日本大使野村吉三郎は歓迎をしました。 しかし、在勤の大使館職員は、岩畔の一風変わった経歴や、東条英機陸軍大臣に疎まれてワシントンに派遣されたという噂もあり、かなり複雑な心境でした。

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日米交渉1941 -8- (草稿)

昭和16年(1941年)4月22日、日本の外務大臣、松岡洋右は、関東州の大連より、飛行機で、日本へ帰…

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日米交渉1941 -9- (草稿)

日米交渉に於ける、日米諒解案の行く末は、日本側の松岡洋右外務大臣による改竄、並びに、アメ…

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日米交渉1941 -10- (草稿)

第2次近衛内閣が退陣し、新たに改造内閣として、第3次近衛内閣が発足した頃、日本では、南部仏…

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日米交渉1941 -11- (草稿)

日米交渉を優先するか、それともアメリカと戦うか? どっちつかずの対応を繰り返し、方針が、ぶ…

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日米交渉1941 -12- (草稿)

近衛内閣総辞職翌日の、昭和16年(1941年)10月17日。宮中では重臣会議が執り行われ、次期総理大…

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日米交渉1941 -13- (草稿)

アメリカは、力の外交によって、戦争回避は可能と目論んでいた一方で、対する日本は、日米交渉…

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日米交渉1941 -14- (草稿)

アメリカワシントンの駐米日本大使館では、ハルノートの返信が、東京から一向に届かない事に対し、いらだちと不安が交錯している状況でありました。 本格的な日米交渉開始から既に7ヶ月。在米日本大使野村吉三郎は、アメリカとの交渉打開が見えず、また交渉締結への具体的方策も見つける事が出来ず、さらに、本国からは、なんの理由もなく、11月29日までに交渉を妥結するようにという、最終期限を示す訓令を受けており、まさに四面楚歌の状態でありました。この重苦しい空気、そして焦燥感は、野村のみのもの

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