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古川ロッパ昭和日記 (唄えば天国ジャズソング)

歌へば天国

古川ロッパ(古川緑波)、戦前-戦時下を代表する喜劇人の一人。その人なりは「日本の喜劇人(小林信彦著)」の中で述べられている「恐れを知らぬタダっ子役者...という評に尽きるのではあるまいか。この「恐れを知らぬ...云々は戦時下の上演に於いても、一見(演目は)、時局に迎合するようで、実は抵抗劇をやってのけた点にある由。そこは全体主義的な統制側に対する抵抗でもあったであろうし、しかしまたロッパ当人はナショナリストでもあったと思う。

(芸術芸能とは左派運動なのだけれど、端折るけれど、端的に、戦前の左派と昨今の左派とは異種)

さて、本書では、深くはふれていない(他の著作、例えば「なつかしい芸人たち」などには古川ロッパに関する項目も、興味があればぜひ)。数曲の紹介は、特に"これ"というわけでもないようで...では、その中から「歌へば天国」、当時のSP盤(100295)と蓄音機で。

本書の「唄えば天国ジャズソング」とは、この曲名に由来かと。

曲の生い立ちは昭和15年(1940年)夏季の「古川ロッパ日記」に詳しい経緯が。当時、西條八十宅に、古賀政男と共に集い、9月公演(オペレッタ)のミーティングが行われた、そこでの仮題が「歌は_(未定)」。ここに端を発し、この曲が誕生(ロッパ主導、ロッパの企画)。持ち歌として、度々、披露されるも、別の曲では、何かというと=エキシビションなど事あるごとに「サム・サンデー・モーニング(Some Sunday Morning)」も唄っている。ちなみに小林氏のおすすめは「古川ロッパ傑作集(CD)」で、これは新版「決定版・日本の喜劇人」で補足されていた。

古川緑波の昭和史

ロッパの功績では(プアな知識は御容赦)、一つは小林信彦という稀代の喜劇狂を生んだ=その舞台に接していなければ「日本の喜劇人」を筆頭に、エンターテインメントにまつわる後年の著作は生まれてはこなかった...はず。またジャズでは、日本映画では初である。ジャズをフィーチャーした初の邦画が1932年(昭和7年)の「浪子(オリエンタル映画)」で、劇中「モン・パパ(C’est Pour Mon Papa)」を唄う(注・現存のマツダ映画社版はカット版54分=オリジナル1時間50分)。なによりも「古川ロッパ昭和日記」を託したことが大きい。これでその名前は半永久的に残ることが確定した(日記を保管されていた古川家また監修の滝大作氏の功績でも)。

昭和史に興味があればとにかく読んでいただきたい。滝大作氏も述べているように、戦前-復興期の日記では質&量ともに他に類を見ない(広辞苑4冊分のボリュームが)。数多の芸能関係者が登場する舞台演劇史として注目に値するのは無論、ただの演劇史ではない。よく、楽屋話は話半分...と揶揄もされるが、元来これは非公開の私的な記録、折々の出来事と心象があからさまに(正直に)綴られており、それはまるで群像劇を読むかのような手応えが。

(そもそもジャーナリズムの世界から舞台芸能に転向した、そのジャーナリスティックな資質は終生不変であったと小林氏も評しているように、これは端的にはルポルタージュ=報告文学的な性質を備えている)

戦中編では(徳川夢声「夢声戦中日記」ともに)空襲下の実情としても貴重、またロッパ日記の一つの特徴に"ドサ"が、それにより東京と地方との温度差、その移動にまつわる実態も明かとなり、などなど、民俗学的にも興味深い。そんな観点からも、史観を探る上で、このような当時の日記は一級の資料に値するのであり、前述、数百年後にも残ることが決定的に。リアルタイムに本人が記した日記とは"事実の反映"であり=エビデンスとしての信頼度も高い。その"事実の反映"であるという点が回顧録また評伝との大きな違いでも。

回想録では、過去の美化&辛い記憶は消去(=記憶の書き換え)、な、傾向が強い(その是非でなく、そういうもの、まして戦時下という異常な時期の記憶では)。評伝に於いては(たいていは)配慮という忖度が働く、また実証主義的に推し進めても限界はあるだろう。そんな云々が日記にはない、そして亡き後、27年後に公開という点もプラスに作用。要は、主だった関係者も滅し=差し支えない時が経過後に、多少の編纂はあれど、ママの刊行である。

(ちなみに戦前の庶民史で体系では「近代庶民生活誌」も名著、興味があれば一読されたし)

民俗学としての日記

コアな話、古くは、日記では、都内西部(江戸-武州)に例えて、「石川日記」また「多波の土産(多摩の土産)」などが有名、一般的には無銘に近いのだが、でも在野の研究者で知らない者はいない&前世紀の日記だが現在も参照-数多引用されている。古川緑波の名声とその日記も一般的には忘れられても(例え演劇史からは消えても、しかし特に戦前-復興期の舞台&喜劇を調べるに於いても、この日記を参照しないというのはありえないのだが)、数百年後の郷土史家は(昭和史に於いては)、必ずこの日記を参照、クロスチェックにも活用する。

(1934年の年頭-1960年の暮れまで、遺漏はあれど、その四半世紀の風俗&文化を窺い知ることが...だが、よくもまあ、連日マメにと…ある意味、呆れる)

文体の優劣云々でなく(また演者としての評価とも関係なく)、このような民俗学的な価値が高い日記では、日記そのものが(指定有形文化財的にも)、そのような宿命を背負う。その意味に於いて、エノケンまた森繁以上に、否、数多の芸能関係者以上にロッパの名前は残る、断言する。亡き後、いわば大逆転ヒットを放ったのだ。

加えると、その日記に登場する関係諸氏も、その恩恵に浴するだろう。前述、まるで群像劇と述べたけれど、妙に生々しい記述が執拗に(事細かに延々と)綴られている。単純に、事実の反映であるはずの日記に創作物かのような趣が=それは読み手側の想像力をも刺激、当時の情景が眼前に浮かぶかのように。つまり例えば、この日記を紐解く度にその対象(描かれた関係者)も蘇生するかのように=この日記の中で生き続ける。

例えばあの土屋伍一も登場(アナーキーに破滅型の典型)、そこでは(多くはふれていないが、にもかかわらず)一座の中での伍一という存在がリアルに描かれている。伍一に関する記録は少ない、そのような記述がなければ実像も曖昧ママ、おそらくは完全に忘れ去られてしまったであろう演者の一人だ(色川御大も「あちゃらかぱいッ」でスポットを当てている、これも興味があればぜひ)。

意外な例では(これは滝大作氏も指摘されている)毒舌で知られるスタンダップコメディアンのトニー谷で、数多の芸能者が登場の中で最も義理堅い印象を受けたのがトニー谷だ。ロッパの生涯には浮き沈みも激しい(しかも魑魅魍魎な芸界)、が、それに対して終始一貫に敬い接したのはトニー谷のみではないか。芸のアクは強いが、根が善人なのだ。これもロッパによる描写なければ、アプレ芸の嫌われ者という偏ったレッテルのみが残されたのではあるまいか?

手厳しい指摘&怨み辛みもあれど(関係各位には遺憾かもだが、良きにつけ悪しきにつけとしても)、この日記に登場な関係諸氏は幸せではないだろうか。あと日記中の記述についてはネガティブな(に誘導するかのような)評もあるのだけれど、少なくとも芸能に対するロッパの意見は正論である(当時の時勢にも留意されたし)。正論であるが故、晩年の姿にはより一層の悲壮感を感じざるを得ない。でも重ねる、大量の日記は残った。それは昭和史に於ける前代未聞の偉業の一つでもある。

(紹介のSP盤動画に関しては隣接権が消滅であろうと思われる、また権利が消滅もしくはJASRACまたはNexTone管理下に置かれている曲です)

第16回[黒と褐色の幻想・徳山璉・杉狂児・美ち奴]
第18回[スリム・ゲイラードとジョー・スタッフォードの"For You"...&パティ・ペイジのジャズ]