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黒と褐色の幻想・徳山璉・杉狂児・美ち奴

鼻唄ソングのエトセトラ

色川武大著「唄えば天国ジャズソング」の第6章テーマは「鼻唄ソング」。鼻唄にまつわる回顧録ママ、曖昧に雰囲気重視な内容は=鼻唄とはそういうものであります。とにかくまあ、詳しくは(特にこの章は)ぜひ本書をお読みいただき、ここでは戦前、色川少年の耳に残った曲(強印象)を紹介させていただく。

まずは「黒と黄褐色の幻想=ブラック・アンド・タン・ファンタジー(BLACK AND TAN FANTASY)」=sometimes "FANTASIE"、SP盤(60444)と蓄音機で。

御存知デューク・エリントン[Duke Ellington]の曲。

これは偶然、レコード店の店頭で耳にして店員に曲名を尋ねたそうだ。それで曲としては、特には=完成されているという意味でも語ることはない、と、そう述べられてはいるが、この曲、御大の随筆に幾度も登場=よほど思い出深いのだろう。ちなみにこの日本コロムビア盤は1927年(昭和2年)録音(Brunswick Recording)、戦前の色川少年が聴いたのと同音源のはず。

ところでこの曲にまつわり1929年の「ブラック・アンド・タン(Black and Tan)」という映画が、20分に満たないショートフィルムは端的には、デューク・エリントン楽団フィーチャーの「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」のPVかのような内容。20年代コットンクラブ期のエリントン楽団であり=この初期のバンド構成による演奏は色川御大のおすすめでもある。

それでこの1920年代後期とはトーキー初期、トーキーを知らしめるためにも、より効果的な、このような音楽メインの映画が先行して制作&公開されたそうだ。以前ふれた、あきれたぼういずのメンバーが戦前に見たミルス・ブラザーズ[Mills Brothers]のフィルムもそんな一作品だったのではあるまいかと。

次は徳山璉「ルンペン節」、SP盤(53113)、1934年の盤(すでに第1章でふれられている曲なのだけれど、幼少期に馴染みの邦楽ということで、ここで紹介)。

次、杉狂児「うちの女房にゃ髭がある」、SP盤(1165)、1936年の盤。

最後は美ち奴「あゝそれなのに」、同盤(片面がこれ、もう片面が「うちの女房にゃ髭がある」)。

親族の家にビクター盤(SP盤)のセットがあったそうで、遊びに行く都度、それを、とっかえひっかえ聴いていた=その中の3曲。

さて、徳山璉「ルンペン節」=御大曰く(意訳)頽廃な趣は結構だけれど、今一つである。なぜならば、いかに自堕落を装えど、歌唱&人物としても正統派=名実を兼ね備えた存在である徳山璉にデカダンスを唱歌されても...リアリティが希薄。要は「歌は人なり」、唄がその人そのものであるならば、それは御尤もでも、徳山璉にしてみれば「...Hmm。

(ただこれ、リアリズム論的にややこしい話ではない、単純な比喩話として綴られている)

この方にはウイークポイントが、いわゆる恐妻家? 古川ロッパの日記に曰く、例えばマメに連絡を入れないと夫人の機嫌を損ねたそうで(=モテたんでは?)。そんな家庭の些事をツアーで同行のロッパに愚痴る様が描かれており、しまいには日記にてdis=最初は興味深く聞いてたロッパも、いいかげんうんざり、詳しくはロッパ日記を参照されたし。

(しかし...夫人の徳山寿子=当時としてはモダンガールの先鋭=いわば"自立した女"の代表格、それがパートナーを束縛とは? ある意味、微笑ましいではないか)

そこで次の「うちの女房にゃ髭がある」=恐妻唄(おそらく恐妻ソングの元祖?)、これを徳山璉が唄えば、まさに唄がその人そのもの...と妄想するのだが、いかがだろうか。その歌詞にある「パピプペ パピプペ パピプペポ...は、まずアイディアに「パラパラ」が、次に「ピラピラ」ときて、それが「パピプペポ」で「パピプペ パピプペ パピプペポ...に。そう説明されてもよくわかんないんだけど、これがこの曲の生い立ち。このアイディアは杉狂児、作詞はサトウハチロー(この逸話は小沢昭一著「小沢昭一的流行歌・昭和のこころ」で紹介されている)。

その「うちの女房にゃ髭がある」の杉狂児、本書ではないのだけれど「なつかしい芸人たち」にて1章が割かれている、興味があればぜひ。戦前、浅草出、実力派とみなされた喜劇人の一人、戦後に於いても数多の映画&TVにも出演、今となっては古い邦画マニアでもない限り通じないかもしれないが、おそらく...50代半ばUPの方であればその演技を見ているはず(見れば「あぁ、この人かとなるのでは?)。起伏に富んだ人生でもあったようだが、色川御大曰く、特に晩年は円熟味が増したそうで、この「うちの女房にゃ髭がある」に例えても完成の域に達していた由。

〆は美ち奴、やはり浅草出、いわゆる鶯歌手(芸者畑出身のベテラン)、父親は役者(ドサ)、実弟は深見千三郎=北野武の師匠(深見千三郎については別書「寄席放浪記」にて1章が割かれている、これも興味があればぜひ)。この「あゝそれなのに」は19才の時(15で芸界入り、16で歌手デビュー、デビュー曲は「東京音頭」=オリジナルは元祖鶯歌手の葭町二三吉=大家)、先の「うちの女房にゃ髭がある」と共に"痴呆歌謡"とdisされるもメガヒット。他にも例えば「軍国の母(1937年)」に「吉良の仁吉(1939年)」などなど多くのヒットが。

当時、一世風靡な美人歌手の一人であったが、この方も波乱万丈=晩年は不遇とされている(晩年、旧縁の役者、女剣劇の大スターであった中野弘子によるサポートは有名、美ち奴の病身を案じた中野弘子が役所に直訴、啖呵を切った逸話が伝わっている)。そしてこの三名に通じるのは、叩き上げの実力派であり、芸能者としての生涯は立派なものであった。惜しむらくは早逝の徳山璉(享年38歳)ではあるけれど、杉狂児&美ち奴では、その晩年に於いても(残された映像を見る限り)芸に"フレ"がないのが凄い。

いわば忘れられたかのような人物にスポットを当てる御大のフィーチャーは、本書では、いずれも確かな芸に裏打ちされた人々だと思う。

蓄音機とSP盤

幼少の色川御大に戻り、親族宅にはポータブル蓄音機が、御実家にはデスクトップの蓄音機があった由。そこなのだけれど、端的には(私は)、色川武大の聴いていた音が知りたい(曲云々以上に、その当時の"音"そのもの)。でもライブ(ステージ)に例えても、それは無理(もう見れないわけで)。

では、せめてレコードは当時ママの環境(その再現、可能な限りではあれど)で聴けないものかと、そこで幼少の御大が接していたのと同年代の機種&盤で=つまり古い蓄音機とSP盤での試みは、ややbluffではあるけれど、いわば色川武大民俗学的なアプローチとでも例えるべきか? なのでまあ、音質云々ではなく(例えば最新のリマスターとの比較ではなく、そこに興味はない。また蓄音機とSP盤のマニアでもない)、とにかく、当時の庶民の家庭で流れていた音そのものが知りたい。

あと、この章、曲数が多い。他にも例えば御大御贔屓ファッツ・ウォーラー[Fats Waller]などなど、ただ、別章で再度フィーチャー(重複)な曲&アーティストも多い、そこで紹介したい。

(紹介のSP盤動画に関しては隣接権が消滅であろうと思われる、また権利が消滅もしくはJASRACまたはNexTone管理下に置かれている曲です)

第15回[元祖コミックバンド (Weintraubs Syncopators) 唄えば天国ジャズソング外伝]
第17回[古川ロッパ昭和日記 (唄えば天国ジャズソング)]