1985年のビルボードHot100を振り返る #2

前回の続き。前置きを書いている暇はない。

12. Sussudio - Phil Collins

前回の記事でも、フィル・コリンズの「One More Time」が1位になったことを書いた。フィルにとって1985年はとにかく当たりだと書いた通り、二枚連続でシングルが1位になっている。「One More Time」も「Sussudio」もアルバム『No Jacket Required』に収録されており、まさに充実の作品だ。
はじめに疑問となるのが、「Sussudio」とは何かということだが、別に意味はない。ただ一点、女性の名前だということが大事だ。「ススーディオ」なんていう名前の人物が存在した証拠は有史以来ないと断言できる。そこはフィル・コリンズの妄想であり、なんとなく浮かんだ単語以外にしっくりくるものがないから、そのまま採用ということでしかない。絶好調だと命名だって大胆になれる。この時期のフィルに子供ができていたら、とんでもない名前をつけていたかもしれないのだ。
前回の「One More Time」が音数の少ないバラードだったのに対して、「Sussudio」は軽快でアップテンポなダンス・ミュージックだ。どちらかというと、「One More Time」よりも1位になるに相応しい曲だと感じる。「Sussudio」「One More Time」の順番だったら、両方とも1位にはならなかったのではないか。多分それをわかって、あえて地味ではあるが良い曲である「One More Time」からシングルにしたのだろう。
フィル・コリンズがリーダーであるバンド、ジェネシスの1981年のヒット曲で「No Reply At All」というものがある。この曲と「Sussudio」は同じ系統の曲だと感じる。ブラスを活用しているところが共通している。多分、フィルのソングライティングの一つの型なのだろう。こんなことを言っていると、どこかからプリンスの「1999」に激似だという意見が聞こえてくる。確かに「Sussudio」と「1999」を比較すると非常に怪しい。歌い出しのところなど、ほぼ違法だ。

意図してかどうかはともかく、パクリの要素は確かにある。それにしても、シンセサイザーによる低音がボコボコとビートを刻んでいるところは新規性がある。シンセサイザーの使い方がうまいのは「Sussudio」の方ではないかと思ったりする。それから、プリンスが悪趣味(プリンスにおいてこの言葉は良い意味だ)な雰囲気を醸し出しているのに対して、フィルは小綺麗な装いとなっている。フィル・コリンズの外見は、プリンスとは似ても似つかない。ミュージック・ヴィデオでフィルは素敵な笑顔を見せつつ踊っているが、プリンスはこんなに容易く素直に笑う人ではない。なぜ私は四十年も経って擁護(にもなっていないが)をしようとしているのだろう。
そういえば前回は書き忘れていたのだが、フィル・コリンズはこの曲をもって三曲目のナンバーワン・ヒットを獲得したことになる。最初の1位は、「Against All Odds (Take A Look At Me Now)」で、これは1984年の曲だ。前回、私はフィルのブレイクが確定したのは1984年末の「Easy Lover」からだよねといったことを書いたが、その前に「Against All Odds」が1位になっていることをすっかり忘れていた。実はこの曲をそんなに好んでいないから、すっかり記憶から抜け落ちていたらしい。あってはならない。

13. A View To A Kill - Duran Duran

多分イントロは有名だと思う。2週連続1位。
これは有名な「007」のテーマ曲となった。昔から007のテーマ曲として採用されればヒット間違いなしという鉄則がある。どれも必ずチャート上位に君臨しているかというとそうではないから鉄則は撤回するとして、今までにポール・マッカートニー&ウィングスの「Live And Let Die」(最高2位)、カーリー・サイモンの「Nobody Does It Better」(最高2位)、シーナ・イーストンの「For Your Eyes Only」(最高4位)といった大ヒットがある。すべてのはじまりである、シャーリー・バッシーの「Goldfinger」(最高8位)も忘れてはいけない。過去の事例を見ると、毎回惜しいところまでは上がって必ず1位を逃しているのがわかる。ポール・マッカートニーもカーリー・サイモンもシーナ・イーストンも、ナンバーワン・ヒットをもっており、主題歌を歌った時期も決して旬を過ぎていない(だからこそ起用されている)にもかかわらず、頂点に達するのは不可能だった。ここまでずっと1位だ1位じゃないと繰り返していると、そんなにトップであることが重要か(ヒットはしてるのだから充分ではないか)と思えてくるのだが、それを言うとすべておしまいだ。とにかく「A View To A Kill」は007シリーズのテーマ曲として、最初に1位を獲得した曲となった。
デュラン・デュランは非常に人気のあるバンドだった。80年代前半、イギリスの新進気鋭のグループが続々とアメリカに進出というムーヴメントがあり、ヒューマン・リーグやソフト・セルやカジャグーグーやデペッシュ・モード(思いついたまま列挙したので統一感はない)といろいろあったものだ。中でもデュラン・デュランは別格だった。1982年の「Hungry Like The Wolf」以来、何か出せば必ずヒットするという状況が何年も続いた。1984年には「The Reflex」でついに1位を獲得した。勢いは止まることなく、1985年に「A View To A Kill」がヒットしたのだった。
何もかも絶好調に見える85年のデュラン・デュランだが、実はかなり様子がおかしい。
何しろ「A View To A Kill」が発表される前に、メンバーの内の二人(アンディー・テイラーとジョン・テイラー)が別のプロジェクトを始めているのだ。その名もパワー・ステーション。自分よりもずっと先輩の歌手であるロバート・パーマーと、70年代後半に隆盛を誇ったバンド、シックでドラムを担当していたトニー・トンプソンを迎えて結成された。デュラン・デュランとは随分異なる音楽性でアルバムを一枚出し、これが結構な成功を収めてしまった。じゃあ二人はデュラン・デュランを脱退したのかというとそういうわけでもなく、同年七月に行われた大規模なチャリティー・コンサート、ライヴエイドには全員集合で参加している。一体どういうつもりなのだろう。何も不満がないのに別のプロジェクトを始めるものだろうか。事実としてパワー・ステーションは結成され、成功した。そんなさなかに発表されたのが「A View To A Kill」で、華々しいヒットの割に不穏な空気が流れているのだった。
メンバー二人が他所で堂々と何かやっている中で、残る三人(サイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラー)もまた己のプロジェクトを始動している。その名もアーケイディアで、アルバムを一枚発表し、やはりヒットしている。全体的にバンドの様子はおかしいが、売れることには間違いないのだから、無駄に全盛期を過ごしているといったところか。それにしても、ここまで分裂すると修復は難しい。翌年のデュラン・デュランは、元の形に戻ることなく活動を再開するのだった。では最初に離脱したパワー・ステーションの方が活動を続行しているのかというと、まったくそんなことはないのだから一体なんだったのかとなる。多分ロバート・パーマーは若い連中と意欲的継続的にやり続けたかったわけではなかったのだろう。あくまでプロモーション用にお膳立てされたプロジェクトでしかなかったようだ。事実、パワー・ステーションがライヴ・ツアーをやる時はロバートは参加しなかった。それはなんだかもったいないというか、グループとして成立していない気がするが、とにかくロバートはライヴで歌わなかった。翌年になると、正真正銘ソロとしてアルバムを出し、今までにないくらいの売り上げを誇るのだった。パワー・ステーションは良い踏み台だったことだろう。
結局デュラン・デュランは1985年に「A View To A Kill」しか作らなかった。「Save A Prayer」という曲もアメリカでヒットしたが、これは1982年の曲を今更リリースしただけのものだ。本当にほぼ解散しているようにしか見えない。

14. Everytime You Go Away - Paul Young

1985年に1位になった曲だけを見ても、「Everything She Wants」「Everybody Wants To Rule The World」「Everytime You Go Away」とEveryから始まる曲が三つもある。なぜ音楽業界がこんなにも包括的な精神に支えられているのか。これがWe Are The Worldの力なのだろうか。
「Everything」と「Everybody」は85年当時、最先端の音楽だったが、「Everytime You Go Away」はそうとも言い切れないところがある。この曲はカヴァー曲で、初出はダリル・ホール&ジョン・オーツが1980年に歌った曲だ。当時のヒット曲ということもなく、ただのアルバムの中の一曲だった。「Everytime You Go Away」が収録されていたのは『Voices』というアルバムで、ナンバーワン・ヒット曲「Kiss On My List」を含む四曲がシングルになっており、これ以上シングル・カットする余地はなかった。そもそもスローな曲だし、アレンジが凝っているわけでもないからはじめから候補にはなっていなかっただろう。
シングルにするとなれば、聴く人に強く訴える要素が欲しいところだ。だから地味で遅い曲は忌避される傾向がある。しかしポール・ヤングは違った。過去のアルバムの収録曲である「Everytime You Go Away」をカヴァーして、見事1位になった。
この大ヒットは、アレンジの勝利だ。決して奇抜にはならない範疇での独特なアレンジが施されている。イントロから聞こえるシタールの音からして良い。チャート・ヒットを聞いていると急に趣が変わったと感じるわけで、これは絶妙なアクセントになっている。フレットレス・ベースによるうねる音も良いし、シンセサイザーも邪魔にならない使われ方をしていて良い。とにかく良い。あえて60年代に寄せたアレンジなわけだが、直球でいかにもなオールディーズ・サウンドを模倣しているわけではない。それはもう60年代風ではないんじゃないのかと言われそうだが、それでも私は主張をやめない。シタールが使われている時点で意識しているものは昔のものだし、途中でレズリー・スピーカーを通したギターによるオブリガードが入るところも、やはり60年代風だ。レズリー・スピーカーは本当はオルガンを鳴らすためのスピーカーだが、ギターやサックスを接続することが時々あったのだ(ヴェンチャーズの「Slaughter On 10th Avenue」ではサックスが例のスピーカーに取り付けられている)。こうした工夫をしている点で「Everytime You Go Away」は、同じ懐かし路線であるワム!の「Wake Me Up Before You Go-Go」よりも優っていると思う。ワム!の方はもっとストレートなやり方だ。あまり変に比較すると暴動が起きるかもしれない。
ポール・ヤングによるカヴァー・ヴァージョンで聴くことができる工夫は、原曲であるホール&オーツのヴァージョンを凌いでいる。原曲は多分オーティス・レディングのTry A Little Tendernessあたりを参考にしていたのではないか。だから下手に比較せず、そもそも趣向が違うのだという話に落ち着けたいところだ。それはとれとして、ポール・ヤングの歌唱法はR&Bに傾倒しており、それはホール&オーツも同様だ。自分と同じ白人でソウルを歌っているホール&オーツは無視できない存在だったに違いない。
この曲が1位になったということは、ホール&オーツにとっても偉大な功績を築いたことになる。ホール&オーツは、1981年に「Kiss On My List」で1位を獲得してから毎年ナンバーワン・ヒットを送り出すという快挙をなしていた。81年に「Kiss On My List」「Private Eyes」、82年に「「I Can't Go For That (No Can Do)」、82年末から83年にかけて「Maneater」、84年に「Out Of Touch」。これだけでも凄いことだ。1985年には1位の曲は出ないかと思えたが、ポール・ヤングが過去の曲をカヴァーしたことによって、ダリル・ホールの作品はまたしても1位になった。というわけで誠に朗報なのだが、これ以降のホール&オーツははっきり言って下り坂だから、なんとも寂しい。ポール・ヤングだってこれ以降、殊更にヒットを連発するわけでもないのだから、ポップ・ミュージックの世界とは難しく解らないものだ。

15. Shout - Tears For Fears

「Everybody Wants To Rule The World」に次ぐナンバーワン・ヒット(3週連続)で、これぞ真打ちという感じがする。あらゆる面でトリを飾っているわけではないので、はっきり言って誤用なのだが。何しろアルバム『Songs From The Big Chair』の一曲目が「Shout」なのだから。それにアルバムからのシングル・カットは「Shout」の跡にも「Head Over Heels」が続いている。というわけで私の言ったことを真に受けてはいけない。
とにかくこれは壮大な曲だ。荘厳な感じを出そうとして過剰になっている曲もある中で、「Shout」は決してやかましくない。別に音数は多くないからだ。イントロのトライアングルからしてもう雰囲気はできている。そして誰もが曲に合わせて「シャウト、シャウト」と口ずさみたくなる、快いしつこさが待っている。
ここまで堅実な音作りができてしまうという点で、私は前回でもシンセ・ポップの臨界点が遂に85年に訪れたということを書いたのだった。初期のOMDみたいな音楽はもう通用しないのだ(あれはあれで良かったのだが)。そういえばOMDは85年に「So In Love」でアメリカでもヒットしたので、めでたいとともに音楽性が成熟したことが寂しかったりする。
ティアーズ・フォー・フィアーズの『Songs From The Big Chair』とスクリッティ・ポリッティの『Cupid Psyche '85』という二枚のアルバムは、シンセ・ポップに大きな節目を作ったと私は感じている。それくらい究極のアルバムが、同じ1985年に発表されたことに運命を感じる。現状の私が1986年以降の音楽をあまり知らないのも、これ以降に今までと同じ感情で楽しめる確信がもてなかったからだ。元シンセ・ポップ愛好家として、1986年以降には大きな断絶があるように感じた。その直感がどれほど正しいのかは、今後の私の探求が答えを出すだろう。
ちなみに「Shout」はシングル・カットされる際に4分程度の短さになっている。シングル・ヴァージョンに対して忠実でありたい私として、これは是非とも記したかった。

16. Power Of Love - Huey Lewis & The News

「We Are The World」のパワー系ゾーンでも力強い歌心を見せていたヒューイ・ルイスがついに登場した。これは2週連続1位。新人のようだが、全然若々しくないのは当然で、80年代になるまで全然売れていなかったのだ。登場した時から既に大物の風格を漂わせている人物だった。
1982年に「Do You Believe In Love」がヒットして以来、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは常に好調だった。1983年に発表された『Sports』からは五曲のシングル・ヒットが生まれた。ただし1位を獲得したのは「Power Of Love」が最初だ。
『Sports』からのヒット曲群からしてそうだったが、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースに抒情性を求めるのはお門違いだ。「Power Of Love」も題名の通りパワーそのもので、『Sports』と何も変わらないようだ。それでも「Power Of Love」は出色の出来だし、今までの勢いからして1位になるのも納得というものだ。もちろん、あの有名な『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌に起用されたことも全然無視できないのだが。ところであの映画本編に「Power Of Love」は流れていただろうか。あまり覚えていない。ヒューイ・ルイスが審査員役として出演していたのは記憶しているが。1985年のヒット曲は、それなりの割合で映画の主題歌になっているのだが、私が鑑賞したのは多分『バック・トゥ・ザ・フューチャー』くらいのものだ。
「Power Of Love」は実に景気の良い曲だ。私はこういう無駄に明るい曲を聴くと、そこに有限性を感じて少しだけ悲観したくなる。どんなことにも終わりがあるものだ。安心できるのは、ヒューイ・ルイスは1986年以降もまだまだ活躍していることだ。
ちなみに1985年にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは「Power Of Love」しか発表していない。アルバム『Sports』が売れに売れて、ほとんどライヴ・ツアーに明け暮れていた年だった。

17. St. Elmo's Fire (Man In Motion) - John Parr

2週連続1位。85年のチャート・トッパーの中でも特に異彩を放っていると感じるのが、ジョン・パーによる「St. Elmo's Fire」だ。別に曲が独特というわけではない。曲自体は、よくある爽やかハード・ポップといった仕上がりだ。私が着目しているのは、ジョン・パーという謎の人物についてだ。
よくわからないのだが、ジョン・パーは記憶喪失の歌手としてデビューした。あまり若くは見えないが、ある時点で記憶を失い、それでも音楽の才能だけは忘れなかったという触れ込みだ。多分、ある事実の誇張、もしくはほとんど嘘だが、今までに前例がないケースなので妙に記憶してしまう人物となった。「ジョンの記憶がパーになった」みたいなことを思いついたとしても、それは私のせいではない。
他に奇妙なのは、このジョン・パーという人物がこれ以降全然ぱっとしないところだ。1984年に最初のアルバムをリリースし、そこから「Naughty Naughty」というヒット(最高23位)が生まれた。これは好きでも嫌いでもないが印象に残る曲だった。この手の一瞬だけチャート・ヒットに登場して、結局あれは何だったのだろうと思う歌手やバンドはいくつもあるもので、ジョン・パーも完璧にそうなると思えた。そんな時に発表されたのが、「St. Elmo's Fire」だった。めでたく1位になったはいいが、これ以降ジョン・パーの曲が満足にヒットすることはなかった。結局、ジョン・パーは何者だったのだろう。
「St. Elmo's Fire」は映画の主題歌だった。もうこれで何曲目だろう。映画、映画と続きすぎではないか。映画の題名は、まさしく『セント・エルモス・ファイアー』だ。映画の主要人物のうち三人が、『ブレックファスト・クラブ』にも主要人物として出演していたという。『ブレックファスト・クラブ』のテーマ曲といえば、前回の記事でも紹介したシンプル・マインズの「Don't You (Forget About Me)」ではないか。極めて狭い世界を生きている気がしてきた。なんにしても私は映画を観ていないので知らぬ存ぜぬだ。
映画『セント・エルモス・ファイアー』のサウンドトラックを務めたのは、デヴィッド・フォスターだ。ジョン・パーの「St. Elmo's Fire」を作曲しプロデュースしたのもデヴィッドだ。80年代からデヴィッド・フォスターを抜いたら相当大きな穴が開くのは必定だ。「St. Elmo's Fire (Man In Motion)」が大ヒットするのも決まりきったことだった。先ほど私はこの曲を「爽やかハード・ポップ」だと言った。それは思いつきで書いただけだが、今も感想は変わらない。それ以上でもそれ以下でもない曲だ。それにしてもジョン・パーの暑苦しい歌い方は、それなりに説得力があると思う。

18. Money For Nothing - Dire Straits

https://www.youtube.com/watch?v=wTP2RUD_cL0

前回の記事で、私は85年のヒット曲の中でキーを変えなくても苦しまずに歌えるのは、シンプル・マインズの「Don't You」くらいのものだろうと書いた。よく考えたら「Money For Nothing」も歌えるかもしれない。ただし、イントロとアウトロで聞こえるスティングの声は再現が難しいが。ありがたいことにメロディーの起伏も乏しいから、歌が得意でなくても何とかなる気がする。
メロディーらしいメロディーがないのが、ダイアー・ストレイツの特徴といっても良いかもしれない。それはデビュー当初からそうだった。「悲しきサルタン」という邦題でも有名な「Sultans On Swing」が大ヒットしたのは1979年のことだった(発表は1978年)。この曲からして、マーク・ノップラーは歌うというよりは呟くに近い歌を披露している。愛想の感じられない曲がヒットするのは不思議だが、1979年と言えばディスコ・ミュージックの終焉の時期で、派手なビートに彩られた曲にいい加減飽きてきた時期だったのだ。そんな時期に率直なギター・サウンドが流れてきたのだから、多くの人が無条件で飛びついたのだった。ナックの「My Sharona」が大ヒットしたのも1979年のことで、人々はそろそろディスコを退けようとしていた。
ダイアー・ストレイツはディスコを終わらせた張本人と言えなくもない。そんなことは良いとして、ダイアー・ストレイツはその後も好調なセールスを記録した。ただしそれはアルバムの話で、シングル・ヒットは少なかった。媚びたアレンジがあるわけでもないし、ヴォーカルは例のお経なのだから、本来シングル向けの人達ではない。そんなダイアー・ストレイツが突然シングル・チャートに再登場し、今度は1位を獲ってしまったのだから驚きだ。しかも3週連続1位で、85年にここまでピークを維持できるのは珍しい。
曲の内容は、現今のロックスターに対する痛烈な批判だ。この記事でも私は一曲ごとにミュージック・ヴィデオのURLを張り付けている通り、80年代といえばMTVの時代だ。音楽は映像込みで評価される時代であり、MTVという番組は無視するわけにはいかないものだった。70年代の歌手やバンドを見ていると、随分とむさくるしい外見をした人間が多かったものだ。毛髪を整える意識など欠片もなく、服装もコーディネーター抜きの、家から私服で撮影そして一丁上がりだ。こんな姿でステージにも立てたし、アルバムのジャケットにも堂々と掲載されていた。それが80年代になると、みんな小綺麗な姿でヴィデオに登場するようになった。昔のように武骨なロックをやっても売れないから、それこそデヴィッド・フォスターなんかのプロデュースを受けて綺麗にシンセサイザーで彩って様変わりだ。それは大変結構かもしれないが、そのありさまはかなり軽薄なものではないかということを、鋭く指摘しているのが「Money For Nothing」だ。正直、私も内心、いや割と露骨に思っていたことだ。それにしても痛烈な批判だ。さっきダイアー・ストレイツはディスコを終わらせたなんてことを書いたが、MTVの時代になると「こんなの見せかけだ」と批判立場になっている。こうして見ると無駄に好戦的だ。
ただ、彼等がミュージシャンである以上、ポピュラー・ミュージックへの批判もポピュラー・ミュージックという形式で行うしかない。上のミュージック・ヴィデオを見ても、今となってはなんてこともなさすぎて逆に凄いCGを使って、当時は話題になっていた。もちろんそれは皮肉としての表現なのだが、結局のところ全部同じではないかとおもう。1967年にバーズ(The Byrds)というバンドが、「So You Want To Be A Rock And Roll Star」という曲を出していた。この曲は当時人気があったモンキーズに対する批判だとして有名だ。モンキーズのメンバーは、あくまでも俳優として集められたもので、彼らはまともに楽器を演奏していないし、満足に演奏できる技量もない。そういったことを含めての当てつけの曲だった。その話を聞いて思うのは、「いや、バーズも似たようなものじゃん」だった。バーズもまた多くの曲で演奏させてもらっていないのだ(スタジオ・ミュージシャンが代わりにやっている)。バーズにしてもダイアー・ストレイツにしても、道づれの精神でやっているのだとすれば、それはもう何も言えない。
「Money For Nothing」が収録されているアルバム『Brothers In Arms』は、やたらと売れた。空を背景に写る銀色のギター(本当はドブロ)ジャケットは、なんてこともないようで妙に記憶に残る。なんだか不思議だ。

19. Oh Sheila - Ready For The World

一聴して、「はいはい、プリンスね」と早合点した曲。この直感は間違いではないのだが、誤解が含まれている。私自身よく理解しているわけではないのだが、プリンスの周りにはいろんな人がいて、総じてプリンス・ファミリーとでもいうらしい。まずプリンスはいつしか「プリンス&ザ・レヴォリューション」という名義で新作を発表するようになった。それとは別にザ・タイムというグループもあり、1985年には「Jungle Love」という曲がヒットしていた。シーラEという歌手、ドラマーもいて、「The Glamorous Life」は大ヒットした。正直プリンスの周辺人物については何も知らないので、追及されても答えられない。
私が観測した限り、プリンスの周辺人物はプリンスみたいな音楽をやっている。そしてこのレディー・フォー・ザ・ワールドというグループの「Oh Sheila」もプリンス風に聞こえる。題名に「Sheila」がついているから、当然シーラEと関係があると思うのだった。だから、レディー・フォー・ザ・ワールド、そして「Oh Sheila」が、シーラEともプリンスともまったく関係がないと知った時は随分と案外な気持ちになった。それまで私は「またプリンスはんが忙しくやっている」と思って疑っていなかったのだから。どう聞いてもプリンスを意識した音ではないか。
それにしてもこれが1位になるとは驚きだ。ヒットするのはわかるとしても、1位まで上がるものだろうか。それくらいプリンスの存在が大きなものになっていたということだろう。1984年のプリンスの勢いはすさまじかった。有名な『Purple Rain』が発表されたのが84年だ。ここから五曲がシングル・カットされ、「When Doves Cry」と「Let's Go Crazy」は1位を獲得していた。プリンスの音楽は変態的で気持ちが悪いところも多々あるが、そういう音楽が売れに売れるとは、それだけ不思議な時代になっている証拠だ。そんな勢いに乗じて「Oh Sheila」がヒットしたのだと私は理解している。
一方その頃、当のプリンスは、いかにもな変態サウンドから少し遠ざかったものを目指していた。85年発表の『Around The World In A Day』というアルバムから出たシングル「Raspberry Beret」を聴けば大きく作風を変えていることがわかる。もはやビートルズへの接近だ。やはり本物はただ者ではなかったのだ。ひねくれすぎると人はこうなるのかもしれない。

20. Take On Me - a-ha

1985年のナンバーワン・ヒット、ひいては同年のヒット曲全体を見渡してももっとも有名なのではないかと思う曲がこれだ。イントロを耳にしたことがない人は少ないに違いない。いろんなところで聞こえてくる。よくわからないアレンジになって流れてくる。もはや一人歩きだ。
この曲はイントロだけで事足りているわけではない。歌が始まってもイントロの情感が維持されている。極めつけはコーラス部分の、高く高く伸びるメロディーで、これはイントロに負けない強いインパクトを与える。これだけの声域をもつモートン・ハルケットの美声は確かなものだ。ポップ・ミュージックとしてこれほど魅力に富んだ曲はそうあるものではない。こんな歌がノルウェーのバンドによって送り出されたのだから唐突だ。アーハという変なグループ名も魅力的に見えてくる。とりあえず数あるミュージシャンの名をアルファベット順に並べると、かなり前の方に置かれることは確実で、そういう点で極めて有利だ。
インパクトといえば、ミュージック・ヴィデオも強力だ。実写とアニメーションを巧みに絡ませたアイデアは、未だにまったく古びていない。むしろ今こそ真に価値を発揮するものではないかとすら思ってしまう。特に一枚の壁がリアルとアニメの境界となっている演出は、いつ見ても楽しい。何かと現実の超克を思う私にとってはうってつけの映像だ。曲自体は直球のシンセ・ポップだし、出演している人達の身なりはやはり古いものだし、表現されている物語だっていかにもな展開なのだが、やはり素晴らしいアイデアの結晶であることに間違いはない。
アレンジもメロディーも歌も映像も完璧に思える「Take On Me」が1位になったのは当然と言えることだ。しかしこの曲はいとも簡単に有名になったのではなく、過去には随分と紆余曲折があった。私は「Take On Me」が収録されている『Hunting High And Low』のデラックス・エディションを持っているから知っているが、この曲は少なくとも四つのヴァージョンがある。そのうちの二つはデモ・ヴァージョンで、最古のものは1982年に録音されている。その後、1984年に公式にリリースされるのだが、それは現在我々が簡単に耳にすることができるヴァージョンではない。

1984年のヴァージョンと、有名な1985年のヴァージョンを比較すると、明らかに後者の圧勝だろう。曲の展開もメロディーもまったく変わらないが人にインパクトという点で格段に差がある。もちろん映像も同じだ。
1984年のオリジナル・ヴァージョンをプロデュースしたのは、トニー・マンスフィールドだ。この人はかなり優秀で、私のようなシンセ・ポップ好きとしては決して無視できない存在だ。音作りの点で、とても良いところを突いてくるのだ。それはトニーが結成したバンドである、ニュー・ミュージック(New Muzik)時代から変わらない(私は『Anywhere』というアルバムが本当に好きだ)。ニュー・ミュージック解散後はプロデューサーとして活躍して、ネイキッド・アイズやキャプテン・センシブルなどのアルバムを手掛けている(『Burning Bridges』『The Power Of Love』は傑作だと思う)。そんなトニー・マンスフィールドがプロデュースした「Take On Me」は、どうにも冴えなかった。いや、ヒットした85年のヴァージョンを知らなければ充分満足できたのだろうが、現実ではそれは不可能だ。有名なヴァージョンの方である「Take On Me」をプロデュースしたのはアラン・ターニーという人物で、過去のプロデュース作を見ると、クリフ・リチャードの「We Don't Talk Anymore」やチャーリー・ドアの「Pilot Of The Airwaves」があり(どちらも1979年作)、これは確かな腕のあるプロデューサーだと言うしかない。トニーよりも年上だが、感性はまったく古びていなかったようだ。
あまり断言したくはないのだが、84年になるとトニーは若干のスランプに陥っているというか、少し時代にそぐわなくなってきている。明らかにクオリティーが落ちたというほどでもないが、今まで通りにはいかなくなっていたようだ。実際80年代後半になるとトニーの活動は地味になり、今ではどう生きているのかさえよくわからない(こんな状態が数十年続いている)。アーハのアルバム『Hunting High And Low』の収録曲の大部分はトニーが務めており、それらの曲の出来はなかなかのものだ。だから決して才能が枯れているわけではない。トニーのプロデュースがあったおかげで、アーハのファースト・アルバムは「Take On Me」だけに限らない、完成度の高いものになっていると言うべきだ。
前回私は、1985年は同じミュージシャンがノリと勢いで連続1位を獲得できる傾向にあると書いた。アーハの場合はどうかというと、少なくともアメリカでは当てはまらなかった。「Take On Me」の次のシングルは「The Sun Always Shines On T.V.」で、これは最高20位だった。おそらく「Take On Me」がシングル曲として完璧すぎたがために、次に何をやっても大したことにならないという苦境にあったのではないか。とはいえイギリスのシングル・チャートでは「Take On Me」が2位、「Shines On T.V.」が1位なので、状況が全然違う。この辺はアメリカ人とイギリス人の感性の違いで説明するにしても、あまりにも不可思議だと思う。

1985年振り返り記事を書く前は、記事一本だけで済むだろうと甘い考えを抱いていた。全然終わらないのだから、途方に暮れそうだ。楽しみがないわけではないから後悔するつもりはない。次回こそ本当に完結だ(と思う)。


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