おんねこ記事への反応への回答

欄干代表(私のこと)の代表作がどれかという問題には諸説ある。どれも公明正大に掲げられないネタばかりなので妙なものだ。とにかく一つ挙げるとすれば、このnoteにて投稿した「私はおんねこの作者かもしれない」だろう。どのくらいの反響を得たかといえば、「スキ」(=記事への高評価といったところだろう)が131だ。これが多いのか少ないのかは人によって判断が異なるだろうが、私にとっては確実に多い部類だ。
おんねこ記事は、私が「欄干公式見解」を開設するにあたって当初から温めていたネタだった。そして始めたばかりに放出するべきものだとも思った。第一に私が考えていたこととして、「欄干公式見解」はマイナーなジャンルをアンダーグラウンドな調子で書き上げるのではなく、なるべく多くの人が簡単に楽しめるものにしようという方針があった。おんねこ記事は、私の意思の提示だった。今日までおんねこは特殊な注目を浴び続けている作品だが、おんねこ記事を投稿した2024年2月は特に濃密な時期だったと感じる。というのも当時の私が異様におんねこ、およびその作者にのめり込んでいたからだ。私の観測する限り、おんねこはかなりの知名度を獲得していたし、そのことについての記事を公開すれば、それなりに読んでもらえるのではないかと期待したのだった。この目算はかなり正確に的中した。まず私の仲間内がすぐに飛びついてくれたのはありがたかった。Twitterのタイムラインという激流の中で、「おんねこ」という文字が大きく表示されることで、決して通り過ぎるような真似はさせないという思いが届いたのだった(非常に迷惑な話だが)。次に望んでいたのは、おんねこ界隈を支える人達の誰かに見つけてもらうことだった。これは厳しい問題かと思ったが、幸いにも一人が読んでくれた。その一人とは、私が記事の中で引用した「和々寺らおんとは何者だったのか?」の筆者だった(なかなか運命的に感じるが、引用したら筆者に通知でも届く仕様でもあったのだろうか?)。とにかく界隈の第一人者に発見されたことが起爆剤となり、現段階では私が書いた中で最も読まれている記事となった。未だに「スキ」通知が時折くるほどだ。

記事公開後に気付いたことがある。それは、おんねこを知らない人だってたくさんいるという、考えなくともわかることだった。記事が注目を集めている最中に、私はTwitterのスペースで人と話す機会があり、ホスト(=スペースを立ち上げた人)の方から「この記事を読むまでおんねこを知らなかった」と言われたのだ。私は案外な気がした。どんなにざっくりと総括しても、「おんねこ」は二度のピークを迎えていた。Twitterでは短くても数日間はおんねこ関連のツイートが嫌でも流れていたのであり、そのどちらも見過ごすことができるとは、なんたる幸運か。運勢はともかく、同じSNSを使い、仲間の構成員もある程度被っているのに、どうしてこうも構築されているタイムラインが異なるのかと不思議に思うのだった。それまで私は、Twitterを利用しているものなら、おんねこを避けて通ることは不可能だと思っていた。そういう考えのもとで私はおんねこ記事を書いた。それだけある種の自惚れが強かったということになるではないか。自意識過剰という方が正しいか。実際あの時の私は異常だったのだ。

おんねこ記事はそれなりに好評を博したはずだが、私はそれ以降おんねこネタを半ば封印した。第一に書きたいことは大体書いたからだ。あれ以上、書いても内容は薄まる一方だっただろう。第二に、同じネタをいつまでも引きずるのはみっともない気がしたからだ。「欄干公式見解」はおんねこ専門まとめサイトではない。一度あるものが受けたらそればかりになるというのは、いかがなものかと思うのだ。もちろん鉄板ネタが生まれるのは良いことだとも思う。しかし、その鉄板がおんねことは、どうにも負の側面が強くなるようで素直に喜べなかった。あれ以上おんねこについて書いていたら、誹謗中傷の要素が強まるか、自己投影が過ぎて憂鬱になるかという二択を迫られただろう。

ここは重要な点で、私のおんねこ記事は作者へ悪意・敵意を表向けているわけではない。むしろ逆で、同情・投影が主だった。巷では散々言われているおんねこ作者だが、じゃあ私自身はどうなのかと省みると、全然他人を笑うことができないではないかと気づいたのだった。そういう思考がいつのまにか自分の父親にまで及んで、「おんねこ作者は私に似ている、いや父親にも似ている」という巻き添えを生んだのだった。
私が確認した限り、記事が明らかな誤読をされることはなかった。おんねこ作者は化け物ではなく人間である。変なところがあるにしても、実は我々と大差はないのではないか。作者の狂気の淵源は、仮にも創作という魔にとりつかれたことにあるのではないか。こういった論調が、正確に伝わったのだとみている。
しかし私は全貌を見渡したわけではない。たとえばTwitterで、私がおんねこ記事のURLを貼ったツイートをしたところ、確か100以上のリツイートが集まった。


ここで余談ですが、問題の「おんねこ記事のURLを貼ったツイート」を探し当てようとしたところ、なぜかツイートを発見することができませんでした。私は決して削除していません。その代わりというべきか、おんねこ界隈の第一人者である洋々教会んおら氏からリプライが来ていることに今更気づきました。なんたる不覚でしょう。
あの時は通知が頻繁に来ていたため、いろいろなものを見落としていたと思います。洋々教会んおら氏には深くお詫びします。んおら氏の日々の追究があったからこそ、私はあの記事を書くことができました。記事を読んでいただきありがとうございます。


話を戻して、あの時の私のツイートに反応してくれた人は多く、それは誰がリツイート・いいねしたかを確認すればすぐにわかることだった。ただし、リツイート・いいねの数と表示されている名前は明らかに合っていなかった。それはTwitterの仕様でもあると思うが、それだけではなく鍵アカウントが多かったのだろう。私が彼等をフォローしていない以上、彼らの名前は非表示のままということだ。イー口ン(検索避け)の手によって「いいね」リストが非公開になって間もない昨今だが、それはあの時からすでに先取りされていたように感じる。
これも無理からぬ話で、おんねこの知名度は上がる一方でありながら、やはり光のネットミームにはなりがたい。どうしても水面下での観測というのが適切な方法になるのだと思う。特にTwitterは、一応おんねこ作者の活動の場でもあるので、不倶戴天だ。そんな場所でおんねこ界隈が形成されているのが変な話に思えてきた。

私が期待していたのは、5ちゃんねるでの反応だった。おんねこ作者のような、変に有名なった人は大抵5ちゃんでヲチスレ(監視スレッド)を立てられるものだ。そこでなら私の記事に関する忌憚ない意見が聞けるのではないかと思ったのだ。しかし実際はまったくの無反応だった。一応、誰かが私の記事のURLを貼りつけて、面白いものがあるとレスをつけていたが、なしのつぶてだった。ふたば☆ちゃんねるも少しばかり見ていたが、やはり何もなかった。あちこち見てまわるとは、自らの悲しき性を感じる。ちなみに何の証明にもならないが、私はおんねこ作者スレッドを見るだけで、書き込んだことはない。5chで記事のURLを貼ったのも私ではない。
反応がないことは残念でもあるが、実は安心してもいる。5ちゃんであれこれ言われるよりかは、静かに暮らせる方が絶対良いに決まっているではないか。


ところが最近になって、私の記事について言及しているスレッドを偶然発見した。それは「あにまん掲示板」というところで、確かにここもおんねこについて語る場所として栄えていたし、私も時々確認していた。もちろんここでも私は書き込んだことがなく、この掲示板がどういうところなのかも知らない。不慣れな場所だから、書かれている言葉に異文化を感じ、奇妙なところが面白いと思った。というわけで以下、スレッドで書き込まれたレスに対する私の勝手な回答を記す。なお、一つだけ削除されたレスがあった。私の知らないところで殺害予告でもされていたのかもしれない。

◇…?

春草…いつもの言葉を頼む

おっ変クっ

まったくわからない。これは何を意味するのだろうか。あにまん掲示板は2021年に開設されたというからかなり新しいところだ。そこで独自に生まれて、住民によって多用されている用語なのだろう。私が感じた「異文化」とはこれであり、意味が全然汲み取れないが、なんらかのコミュニケーションとして暗黙の了解があることは推し量れる。上の語句を調べようとしても特に何もでてこないところもすごい。もしかしたらふたば☆ちゃんねる以上に閉鎖的、排他的な掲示板なのかもしれない。新興掲示板なだけに体系化もされていないのかもしれない。というか昔のネット民が、新参への教育に熱心だっただけなのだろうか。かつての私はいろいろな場所から、2ちゃんねる用語を学んでいったものだったが。

何を言っているこのバカは?

はじめて理解できる言葉が出現した。いきなりの罵倒だ。これについては私は激しく同意と言うほかない。実際、私はバカになっていたのだ。2023年末から2024年2月までの私のおんねこへの執着は異常で、何を見てもおんねこを連想した。それこそ、もちくー氏や洋々教会んおら氏、怨専氏、ペファガルサシスオン氏、緑地氏、蟹胡麻氏、SHISHI氏といったおんねこウォッチャーの発言、創作活動などを見ない日はなかった(私は彼等の名前を何も参照せずに言える)。あの時の精神はさすがに今の私にはないが、未だに最新の動向を見ているし、今もこうして記事を書いてもいる。だから今もそれなりにバカだし、それ以前の問題だという説もある。

そういや今らおん活動止まったからこの人も止まるんじゃねえスか
ちいかわのパクリに精神汚染されるあたりこの人もどっかおかしいと思われるが

まさに私は「おかしい」のであり、その精神汚染の結果が「私はおんねこの作者かもしれない」だった。あの記事を書いた目的は自己救済でもあった。あまりにもおんねこへかける情熱が甚だしく、いろいろなことを考えてしまうため、一度言語化をすることで落ち着かせようという処置だったのだ。効果はちゃんと出た。おかげで今はおんねこウォッチャーのアカウントを一日に何度も確認するようなことはなくなった。上のレスが示しているように、私は「止まった」部類に入ると思う。
ただ、おんねこ作者はその後も新作を発表している。何はともあれ作ることができる人は偉いと思っている私は、いろいろと但し書きはつけなければならないとしても、おんねこの作者を凄いと思う。何はともあれ短編漫画を発表し続けることができているのだから。
作者の活動に呼応してか、ウォッチャーの追求も止まない。最近だと、LINEスタンプの合成機能を活用して、ちいかわとおんねこを合体させた魔のスタンプがTwitterで公開されて、注目を集めることとなった。LINEもなぜこんなネット民のおもちゃになるに決まっている機能を採用したのだろうか。世界のマインドがネット民仕様になっているのかもしれない。

https://x.com/Labdanum_2/status/1790387322514784443

スタンプを合成させた人は、私の知るおんねこウォッチャーではない。特に最初のツイートの主は、これの他に何も投稿していない謎のアカウントだ。誰が新規参入してもおかしくない世界ということだろうか。それを言えば私も新規参入者だ。

全く取捨選択できず要領を得なく意味のない長文をアホほど垂れ流す文章的にギリ健の方っぽいんだよね

なかなか長い一文だ。ここでいう「ギリ健」とは、ギリギリ健常者と言うこともできなくはない、要するに障害者に近い人という意味だ。この指摘もその通りで、おんねこ作者は「ギリ健」なのではないかと言われているのを見ると、私自身もそう大差ないのではないかとも思える。そういう考えが我がおんねこ記事に結びついたのだ。そういう風に意味を読み取ることができたのなら、私の文章はある程度核心をついていたのであり、人に理解させるものになっていたということになる。


>この記事を書いている内に思い浮んだのは、私の父親が描いた漫画だ。それは私が無理矢理描かせたものだった。

お前…どうして父親に無理矢理漫画を描かせたりしたんだ?

私が書いたことに対する疑問の声だ。子供時代の私は特殊だったのだろうか。とりあえず親との関係が良好なのは事実だ。だから私は戯れに描いた漫画を親に見せることができたし、親にも絵描きを強要することができた。私はそういう光景を、割と当たり前のこととして疑いもしなかったのだが、人によっては普通ではなかったのかもしれない。なぜ親に漫画を描かせたのかというと、要するにごっこ遊びだったのだ。世の中に漫画家はたくさんいる。それを再現するためには、自分一人ではどうしても寂しい。だから親という漫画家仲間が必要だった。また、先生と編集者という関係を演じたかったのもあるだろう。そんなに漫画に夢中だったわけでもないのに、こんなことをしていたのだから変な話だ。

私の記事に関するスレッドは、そう大して伸びなかったので、レス数も上で紹介したものでほぼすべてになる。それにしても私は、解読できるレスのすべてに同意できた。彼等の口調は少なくともTwitterで見たものよりも忌憚ない意見だった。それでも彼等の言っていることは的を射ていたし、ひどい誤読もない。というわけで私は満足している。大っぴらには言えないことかもしれないが、私のおんねこ記事は欄干公式見解の代表作なのだと表明したい。

ところで最近になって、おんねこ作者はついに訴訟に乗り出したようだ。既に一人が訴えられている。今後の作者の動向が気になるところだ。私もまた、おんねこに言及し、わざわざ記事を書き上げた者だ。訴訟の可能性も数パーセントはありそうだ。水面下でどうなっているかわからない。ただ何度も書いているように、私はおんねこ作者を非難しているわけではない。むしろ自己投影しているのだ。作者に異常な点があるのだとすれば、それはもっと普遍的なことだし、意外と多くの人が抱える問題なのではないかということを言いたいのだ。言えば言うほど保身にしかならないのかもしれないが、とにかくこればかりは誤読を受けたくないものだ。公判へ続く。


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