私はおんねこの作者かもしれない

私はタイピングがそこそこ得意で、よくタイピング練習サイトで遊んでいる。場所は専らmyTypingで、ここは頻繁に新しいタイピング練習が更新されるから飽きない。ここでは毎週のテーマというものが決っており、例えば今は二月だからバレンタイン、四月なら入学にまつわる単語や文章が二十問出題される。正直テーマなんて何でもよく、とにかく早くタイピングがしたいだけだ。そういう態度でいたのだが、つい最近公開されたテーマが「温泉」だったのだから、私の心は穏やかではなくなった。こんなところにまで侵食しているのか。というのは言い過ぎで、実際のところ蝕まれているのは私自身だ。

おんねことの出会い

「おんねこ」という漫画が作者によって封印されてから、もう一年が過ぎている。
あれは2022年の夏。いつ誰によって見出されたのか、ちいかわのコピー品という評判とともに、多くの人の目に触れることとなった。ちいかわのメイン三人が「ちいかわ」「ハチワレ」「うさぎ」である一方、おんねこの「おんねこ」「ドムタロ」「ペンギン」という対照は、確かに「ちいかわ」という作品を意識しているとしか思えない。
なんとなく似ているだけでなく、画力や物語の面にも奇妙な点がいくつもあった。キャラクターのシルエットの大半が歪な形で描かれやすく、特に頭の突起が癖になっている。これはおんねこの作者がよくやる(そうなってしまう)手法で、人間の頭を描いても同じ形になることが多い。
走る時に謎の前傾姿勢をとるし、横顔になった時は妙な口の開き方をする(正面から見れば口が大きく裂けているだろう)。まともに言葉を喋らないちいかわに倣って、おんねこも無口になったかと思えば、後の話では普通に喋っている。主人公であるおんねこは、「おんせんがすきなねこ」という固有名詞には見えない名前の略称であるにも拘わらず、他のキャラクターから「おんねこ」と呼ばれている(ちいかわが作中で誰かに「ちいかわ」と呼ばれることがあっただろうか)。こうした違和感が次々と指摘されたことで、「おんねこ」は「ちいかわのトップバリュー版」という称号を得た。
さらに問題になったのは、おんねこの作者が「ちいかわ」を知らないと主張していたことだ。さらに「ちいかわ」のパクリ扱いされることに不快感を呈していた。原作者は「パクリ扱いされるのが嫌なので今後はこんな風にやっていきたい」という声明を描き下ろしイラストとともにツイートするが、「こんな風」が何を指しているのか自明でなく、混乱を生んだ。謎に眼がくらんだ結果、そのイラストに描かれている階段が、とうてい昇れるものではない歪な形になっていることにしばらく誰も気づかなかった。考察の結果「ちいかわ」以上に背景の描き込みを徹底した作風にしようとしたことが「こんな感じ」の答えであり、有言実行として公開された「ウッドン」編なるものは確かに努力の証が認められる。しかし、本人がどういう気持であれ人からパクリ認定されたら、話はそれまでなのだ。もちろん盗作は親告罪だから、「ちいかわ」の作者側が訴えない限り法的罰則はない。しかし、例えば私が独力で二次方程式のようなものを考案したとして、二次方程式は既に広まっているわけだ。二次方程式の作者は明らかに存命ではないが、だからと言って私が考案した方程式はオリジナルにはならない。
とにかくおんねこの作者が「ちいかわ」を知らないと言ったことは、その後のネット民のおんねこおよびその作者に対する態度を大きく決定づけた。
また、この頃の私は知らなかったのだが、おんねこの作者は「てっく」というほとんど作者自身の投影と言っても良いキャラクターを作り出している。婚活を題材にした漫画を描いており、モラルのなさ、誠実をはき違えた男性像として批判の対象となった。「おんねこ」をめぐる意見が尾を引いた原因として、「てっく」の存在は大きい。

2022年の8月といえば、私は謎の体調不良で寝込んでいた。そんな時に「おんねこ」という作品が騒がれており、確かにこれは稚拙なエピゴーネンだと笑った。しかし軽い気持で見た「チャンスハゲ登場回」によって気分は改まった。自分に自信がもてず自縄自縛の状態で苦しむ「ペンギン」が、空から垂らされた「チャンス」(お札に見える)を掴むために崖から飛び出す。お札を釣り糸で垂らした者は天使だった(頭髪がないから「チャンスハゲ」という通称ができた)。ペンギンの一連の動作を見た天使は「チャンスはつかんだだけじゃ変わらないぜ」と口にする。
2022年の私は、この漫画を見てかなり真に受けた。とにかく私はこの漫画から「失意」を読み取った。精神的にも元気がなくなり、次のようなツイートをした。

ラウンドワンがTwitterにてプライズ企画を募集していたところ、おんねこの作者が意気揚々と「おんねこ」を自薦して、何の返事も得られなかった(ラウンドワンが実際にコラボしたのはちいかわだった)という事実を知ったことも良くなかったのかもしれない。とにかく世の中には、いくら努力しても実を結ばないことがあるのだ。この手の話は頻繁に聞くが、才能や能力が充分ではないという情報を視覚的に得てしまっては、世を儚むしかなかった。
「おんねこ」という題名から感じる違和として、どうしても「怨念」という言葉を想起するという意見を見たことがあるが、同感だ。おんねこの作者は 負の感情を作品に込めることに長けており、これはいかなる批判者でも認めざるを得ない能力だ。これは恐らく本人の経験に基づくものだろう。本人だって自分が歩んできた道に疑問を抱いたことがなかった訳ではないのではないか。

第一次おんねこブームは2022年下半期に起り、原作者自身が「おんねこ」の打ち切りを表明し、これまでに公開した「おんねこ」のエピソードすべてを削除したことで幕を閉じた。騒動の余韻は続いたが、インターネッツというのは常にどこかが燃えているのだから、一度節目を迎えて静まれば忘れられてゆく。だからこそ一年後の2023年下半期にまたしても「おんねこ」という言葉を頻繁に目にするようになって、これは普通ではないと思った。幸か不幸か、今度は「おんねこ」を見ても鬱屈した心情にはならなかった。
いつの間にか「おんねこ」の奇妙な点を指摘したり、原作者がいかに異常であるかを考察する界隈というのがTwitterにて形成されており、私は知らない間に出来ていたムーヴメントを楽しんでいたと言える。また、おんねこの作者は確かに「おんねこ」を封印したが、創作活動を止めた訳ではなく、人間が登場する漫画を投稿し続けていた。事態は昨年以上に活性化しているように見える。私にとってのおんねこブームは2023年から始まったのだ。しかし過去の経験を忘れた訳ではなく、私は「おんねこ」およびその作者のことを心底嗤うことができない。というかこれは私だけに限ったことではないのではないか。

あれは昨年十二月末のこと、私はTwitterの通話機能スペースにて、フォロワー同士語り合っていた。話題は近年のインターネッツがいかなる問題を抱えているかという批判になった。そこで私は「近年の誹謗中傷コンテンツは叩かれる側と叩く側の境界が曖昧になり、心の底から対象を馬鹿にすることができなくなっている。故に人々は自分もまたくだらない存在だと思えてならなくなっている」という論を展開した。これは私が数年前から抱いている見解であり、そこそこ自信があったのだが、周囲からの反応は否定ではないにしても、よくぞ言ってくれたというほどの同意も得られなかった。
先述の説を披露する上で私が意識していたのは、syamu_gameであり、おんねこの作者だった。今も本人なりに元気に活動しているはずのsyamu_gameは、かつて「ギリ健」と呼ばれ、知的障碍者の一歩手前に留まっている存在として揶揄されていた。syamuがギリギリ健常者だとするなら、どこからが健常でどこからが障害になるのか。これは簡単に判断を下せることではない。またここまで話が曖昧になってくると、syamu以外の我々も本当に健常者だと断言できるのか怪しくなる。おんねこの作者とsyamu_gameの比較はよくなされることであり、私はどうしても普通とそうでないものの境界を考える。そうして私自身はおんねこの作者から遠い存在なのかと自問すると、いくつもの怪しい点を見出してしまうのだから恐ろしい。

共通点

創作活動

「おんねこ」という漫画があったように、その作者は漫画を描き続ける人だった。「おんねこ」だけでなく、多様な漫画を描こうと努めていた。「おんねこ」が「ちいかわ」のパクリだと言われたことは残念なことだし、最近でも「おんねこ」以外の諸作品が、他人の漫画の剽窃だという指摘が続々となされており、一体作者にとってのオリジナリティーはどこにあるのかという話になっている。多くの但し書きをつけなければならないとはいえ、おんねこ作者は漫画を描き続けているし、創作意欲をもっていることになる。
これは私も同様で、私の場合漫画ではなく小説を書いている。漫画は子供の頃に戯れで描いていたのみだ。私の小説がいかなる評価を受けているかといえば、(ごく一部の身内を除いて)読まれていないのでまったくの謎だ。ここが私の助かっている点で、絵という視覚的な表現に頼っていないことが、あらゆる毀誉褒貶に結びつき難いようになっている。私の小説もまた、どこかで大いなる破綻があるかもしれないし、重大な盗作が指摘されるかもしれないのだ。そういった危険があることはともかく、重要なのは私が作っているものはまったく人気がないということだ。それはおんねこ作者にしても同様で、「おんねこ」が異様に注目されているから話がおかしくなっているとはいえ、これがなければ永久に埋もれ続ける創作者になっていた可能性が高い。「おんねこ」が注目されなければ、私は一生作者のことを知らずにいただろう。おんねこ作者は無名の中で、常に描き続けていた。私もまた続けたところでどうなる訳でもないものを書いている。私がかつて「おんねこ」を読んで、「失意」を読み取ったのはそういうところに起因している。

謎のネーミング

「おんねこ」のメインキャラといえば、おんねこであり、次にドムタロがいる。「ドムタロ」とは公式の名称で、由来はまったく不明だ。ドムタロの外見はハムスターに似ているから、ハム太郎を意識していることはわかる。しかしそこから「ドム」に変形するところで完全な謎になる。当然、ガンダムのドムにはまったく似ていない。この意味不明な名称から、ネット民が勝手に悪意ある名前にした結果なのではないかと勘違いする人も出てくる始末だった。おんねこの作者は、ネットウォッチャーの悪意を上回ることがある。例えば洋々教会んおらというおんねこウォッチャーの第一人者は、歪んだ輪郭をした老人の顔のイラストをTwitterのアイコンにしていた時期(去年まで)があり、私などはおんねこの作者が描いた人間キャラを悪意によって醜くコラージュしたものだと勘違いしていたのだが、実際は他ならぬ原作者自身によって描かれたものだった。
先述のとおり、「おんねこ」では「ウッドン」という街へ買い出しにいく回がある。この「ウッドン」という名称もやや奇妙だ。その街では木々に囲まれている描写があることから、woodまたはwoodenに由来しているのだろう。ただそれを「ウッドン」とカタカナで表記すると少し奇妙に感じる(微妙に言いづらい名前だと私は思う)。憶測として、ラウンドワンとのコラボを企図して失敗した過去と関連させて、ラウンドワンを意識した名前なのではないかと言う人もいる(おんねこ作者はウッドン編を描き上げた後にラウンドワンに自作品を薦めている)。さすがにそれは過剰な考えだろう。
作者自身を投影した「てっく」というキャラクターがいるとは先にも書いたが、この「てっく」もまた何に由来しているのだろう。「テクニック」から採っている説や、本名に「歩」という字がある説が囁かれているが、真相は分らない。
このようにおんねこ作者のネーミングはことごとく謎だという言説は多い。さてネーミングセンスという点を私自身に照らすと、やはり妙だということになる。私は今Twitterで「欄干代表」と名乗っているが、これに大した由来はない。今、「欄干代表」の直後にß(エスツェット)をつけて「欄干代表ß」という名前にしているが、これも私自身何が理由なのかさっぱりわからない。ここ(note)ではない別のところで「モリブデン陽光」という名前のブログをやっているが、これもまったく意味はない。かつて「年賀状はお魚天国」という掲示板をしたらば掲示板でつくったこともあるが、これもふざけたものだ。由来のわからない人を困惑させる命名をするという点では、私も常習犯であり、だからおんねこ作者が特別酷いことをしていると感じることができないのだ。

強い自惚れ

おんねこの有名なコマとして、カフェで働くおんねこが、誤ってカフェオレを提供してしまったことで客(通称「カフェモカドン太郎」)から怒られるシーンがある。おんねこは激高する相手に対して困惑するのみで謝罪はなく、夜に眠れず怒った客のことを思い出して苦い顔をする。自分の失敗を棚に上げて、声を荒らげた客を理不尽な存在扱いしている。そこから話は「ねえ……がんばれして…?」に繋がるのだが、今は関係ない話だ。
私はこのエピソードのことがよく理解できる。相手がいかに正しくとも、高圧的な態度をとられると抵抗したくなるものではないか。正しいことを言われるほど人は反発するものだ。おんねこ自身も、自分が間違ったことをしたという自覚がない訳でもないだろう。自責の念とともに相手の態度が混ざった結果、あの顔になるのであり、それはちょっとした混乱なのだ。これは人間にはよくあることだと思うので、おんねこ作者がどういう意図だったかはともかく、結果的には成功している部類の描写になったのではないか。

また「てっく」によるエッセイ漫画では、マクドナルドのポテトが食べたいあまり、崖から崖へと飛び越える描写がある。おんねこ作者はユーモアを生み出したい時に必ず過剰な表現に頼る。静かな描写で人を笑わせたり、意図的にシュールだと思わせたりすることが不得手だ。結果として作者自身がひたすらに「てっく」という自分のアバターを前面に押し出した漫画ができあがるのであり、それがナルシシストだと受け止められる結果となっている。
他にも、海鮮丼を口にした際に恍惚とした顔をして「ほっぺないなった」と感動する「てっく」を描いたことで、四十に近いことが確実視されている男性がこんな顔をしている自分を描くことに抵抗はないのかと言われている。
有名な婚活漫画でも、女性の顔を見て「なんか……肌汚くない?」と顔を顰めるコマは特に知られている。露骨に相手の顔を評価する一方で、「てっく」は内面を見てほしいとも言う。この点を見ても、他人のことはどうでもいいが、自分自身は大事にされてほしいという身勝手な願望が表れている。

おんねこ作者の自己愛について語ると長くなるのでここまでにするが、私としては一理あるとどこかで思っている。自己陶酔をせずして創作ができるかと思うし、自分自身を殊更に大事にしたい気持は抱いているべきだと思う。おんねこ作者の悪かった点は、身勝手で陶酔している自分というものに意識的でなかったことだ。自分が大好きだということ自体は問題ない。私だって今後も創作を続けてゆけば、この年齢でこんなものを作っているのかと言われるだろうし自分でも思うだろう。それでも若い心というのは重要だと思う。それをいかに表現するかが大事なのだ。

卵への執着

おんねこの作者の人となりが浮び上ってゆくうちに、一番私にとってまずいなと思ったのがこれだった。おんねこ作者が作中で登場させる食べ物は、かなりの割合で卵なのだ。「ペンギン」の得意料理は卵焼きだし、「おんねこ」も「てっく」も卵かけご飯を食べるし、別の漫画でも食堂でカツ丼の卵とじを注文するシーンがある。「てっく」が値段も見ずに入った海鮮丼の店でも卵が使用されていた。作者は、まともに固まっていないプリンの写真とともに「簡単プリンの作り方」というレシピを公開したことがあるが、プリンもまた卵が材料だ。

なるあすくという漫画家がキャンプ用品が今ここまで充実して販売されていることに驚くという描写を含む漫画をTwitterを投稿したことがある。おんねこの作者は他の描写には目もくれず、「この卵かけご飯は絶対美味しいやつですよね」とリプライをつけた。確かに漫画では最終的に卵かけご飯が完成するのだが、その前にも色々な過程が描かれている中で、おんねこの作者は卵要素に飛びついたのだ。
余談だが、私は2015年前後になるあすくが連載していた「武蔵くんと村山さんは付き合ってみた」という漫画を好きで読んでおり、単行本も出た分はすべて買って読んでいた。そのため五年以上も経過して、「おんねこ」という醜悪な状況におかれている作品とその作者に関係していることを知って、思い出の漫画の作者がなぜこんなところで繋がってしまうのかと愕然としたことがある。

他にもおんねこの作者は、他人の面白いツイートのやりとりを漫画化してリプライをつけたことがある(ネームの状態で)。漫画の内容や完成度はともかく、あるコマで男の子がお母さんに今日のご飯は何か訊ねる描写がある、それに対して母親は「タマゴの入ったみそ汁よ」と答えて男の子は喜ぶ。夕食を問われて味噌汁しか答えないことの欠落が指摘されている中で、私だけは内心笑えなかった。というのも、私もまた「タマゴの味噌汁」と答えられただけで充分喜ぶ人間だからだ。もしおんねこ作者が想像する「タマゴの入ったみそ汁」が溶き卵によるものだとしたら、私の好みと一致することになる。
おんねこ作者の卵の好みを鑑みると、固茹でをあまり好んでいないようだ。これも私と共通することであり、都合が悪い。少し前にそこそこ高級な親子丼を食べた機会があり、とても美味だったのだが、始終「てっく」の顔が思い浮んだので始末に負えない。

本当に似ているのは私ではない

おんねこの作者に対する評価として、物事に興味がないというものがある。漫画が好きで漫画を描いている割には、所謂「性癖」を感じないのだ。だから何かに似ている漫画ばかり描いているし、もう味がしないほど使い倒された題材をまた用いていると言われる結果になっている。しかし、普通の人の趣味とはこんなものではないだろうか。
作品を見るというのは能動的な行動だ。本を開いて描かれていることを読む行為は、漫然と金曜ロードショーを眺めるよりも確固たる意思がある。鑑賞したものに対して人は勝手に感想が浮ぶ。そこで大抵は終りであり、自分もまたこういう物語を描きたいと思う人は少数派になるだろう。そうして実際に着手する人はさらに少ない。おんねこの作者は、どういう訳かこのいくつもの関門を潜り抜けていった。
私がおんねこの作者に対して抱く謎というのは、なぜあらゆる興味を抱かず、当然調べようともしないし、何かを見たとしても特に何も得ないであろう人間が、興味・調査・学習が必要な創作に没入したのかということだ。

ここまで、おんねこの作者は私と似ているのではないかということについて書いた。しかしここまで書いて、本当に似ているのは私の父親なのではないかと感じてきた。私の父親こそ言動が意味不明な人間なのだ。
私の父親も、作品鑑賞に大した情熱を傾ける人間ではない。ただし文化的なことに無関心という訳ではなく、頻繁に話題になっているものを見よう聴こうとする。音楽だと話題になっているからゴティエやジャスティン・ビーバーのCDを買っていたが、ヒット曲しか聴かないから全編がどのようになっているのかをいつまでも把握していない。小説の場合「1Q84」や「乳と卵」を買っている様子を見たことがあるが、無類の小説好きということはない。
これだけなら普通の人はそんなものだで済むだろう。しかし父親の不思議なところはそれだけではない。

おんねこ作者に関して詳細に分析した貴重な記事として、「和々寺らおんとは何者だったのか?」がある。

そこで指摘されているのが、「アンチとレスバをしたことはない」ということだ。また「自分の作品に好意的なリプライをくれた人に対する返事も、ただのオウム返しや定型文のような内容が多」いことが指摘されている。だからおんねこの作者は人間ではない、botかもしれない、実際に会うと異形であるという可能性を捨てることができないという展開になっている。しかし言うまでもないが、おんねこの作者は人間だ。私の父親は少なくとも姿かたちは人間だが、文章でやりとりをすると途端に無機物に近くなる。LINEでメッセージを送っても「了解」くらいしか返さない。質問したいことが二つあって、同時にメッセージを送っても、一つしか回答してくれない。こんな父親は普段も無口なのかというと、普通に喋る。誰かに物怖じしている様子も見たことがない。

おんねこの作者は、自分と同じ漫画家を志望する者がついに雑誌で賞を獲得したという報告をツイートした時に、おまでとうございますとは言いつつも、「でも柏木由紀の責めた下着?にしか目がいかないです」とつけ加えた。これは悪意で言っているのではないだろう。なぜなら私の父親も、伯父がかつて宝くじを当てたという話を聞いた時に「その時に運を使い果たしたんだねえ」と言ったことがあり、これもまったく悪意によるものではなかったからだ。

この記事を書いている内に思い浮んだのは、私の父親が描いた漫画だ。それは私が無理矢理描かせたものだった。現物を探し当てることができないので詳細は思い出せないが、一つだけ強く記憶に残っていることがある。それは「ふきだし」をキャラクターの口にくっつけて書いていたことだ。見ようによっては、キャラクターの口から本当にふきだしとセリフが飛び出してしまっている。このような様式を採用している漫画を、私は寡聞にして知らない。
私の父親は漫画を一切読まなかった人ではない。熱心な漫画好きでもなかったが、どういう風に描かれているかくらいは目を通していたに決っている。ところが実際に自分が漫画を描く立場になると、漫画から肝心な点を学んでいないことが露呈するのだ。描いた本人は、自分のやっていることが奇妙とは思わないし、だから平気で「ふきだし」を口から吐き出させる。そして他人である私が見て、これはおかしいと気づくのだ。この構図は、「おんねこ」を見て違和感を次々と発見するウォッチャーの関係と似ている。

おんねこの作者の異常性を述べる上で、「サリーアン課題」という言葉が持ち上がる。「サリーアン課題」についての解説は省くが、以下の実例を読めば大体のことは把握できるだろう。
ある回で、おんねこがポスターを風呂場に貼れば景観が良いだろうと考え実行したところ、湿気でふやけてしまった。そこでドムタロがおんねこ宅を訪れると、おんねこが泣いて駆け寄ってくる。その様を見たドムタロは、「うんうん、シワシワになるね」と言って微笑むのだ。なぜドムタロは泣き喚くおんねこを一目見ただけで、その理由が読めるのだろう。その状況における人物が何を知って何を知らないかという判断が充分ではなく、作者の視点がそのまま全キャラクターに投影されていることが問題となっているのだ。
ドムタロの超能力は、作者がちいかわを意識したためにおんねこが喋れないという制限から生まれたものだろう。作者はもちろん読者から見れば、おんねこが何を理由に泣いているかは一目瞭然なので、省略したのだと言うこともできる。省略するにしても、もっと上手いやり方はあっただろう。そこはおんねこ作者の突き詰め方が甘かったということができる。私の父親が同じ展開の漫画を描いても、同様のありさまになる可能性が高い。父親は映画を見ても、重大な場面を見落としていることが多く、観終えてから「あれはどういうことだったんだ?」と問いかけてくる。また、話の筋に関係ない部分に注目する(例えば鳥が少し変わった鳴き声を発したとか)ことも多く、それからは延々とそのことを繰り返している。父親は鑑賞におけるインプットもアウトプットも変なのだ。

父親は自分のどこか普通でないかまったく理解していない。私や母親が何を言っても、まったく耳に入らないようだ。父親は所謂「天然」なのだ。本物の「天然」はわざと変なことができない。おんねこの作者も同様だろう。作者は「おんねこ」が不名誉な形とはいえ注目されたにも拘わらず、自ら作品を封印した。そのことから、「チャンスはつかんだだけじゃ変わらないぜ」というセリフを書いておきながら、当の本人がチャンスを繋げることができていないではないかと批判されている。そしてそれは作者の高すぎるプライドによって、自分を道化として売り込むことができないのだという論理になっている。
しかし私の考えでは、おんねこの作者はそこまでプライドが高くないのではないか。おそらく作者は未だにこの状況を理解していない。作者は自分が誹謗中傷を受けているとして、「クリエイターを叩いて中傷するしか能のないネットウヨの皆さんが、コンテンツを衰退さた。」(原文ママ)という声明をTwitterにて出したことがある。なぜアンチのことを「ネットウヨ」と呼んでいるのかは不明だ(ネットでウヨウヨしている奴らという意味合いだと勘違いしている説がある)。それはともかく、作者は本心から中傷を受けているつもりなのだ。今日まで作者が描いた「おんねこ」および他の諸作品は、ウォッチャーによって散々奇妙な点を指摘され続けている。それらの意見は、人格を否定している側面もあるとはいえ、批評性も多分にある。しかしおんねこの作者は、何を言われているのかよくわかっていないに違いない。ただ何となく否定されていることがわかるのみだ。

思い返すと、私の父親とおんねこの作者は色々なところで共通していると感じる。しかし他人からすれば、お前の父親は漫画家を目指していないのだから、少しくらい認知がおかしくても問題ないではないかと言うかもしれない。確かに私の父親は漫画家になろうとはしなかった。しかし役者になろうと劇団に入っていた時期もあるのだ。つまり父親はまるで表現の世界と無縁という訳ではないのだ。父親がおんねこ作者と違ったのは、演劇という一人では完結することがまずできない領域に居たことだ。演劇をやるからには他人から徹底的に指導が入るものだ。決して自己流ではいられない。
私の父親が演劇を止めたのは、母親と結婚する際に責任を感じたからだ。もし、母親の存在がなければ、父親は未だに俳優になる夢をもち続けていたかもしれない。おんねこの作者は漫画家という限りなく独りでも成立しなくもない世界を選んだ。また、すぐに結婚しなくとも極めて異様ではないという時代に生れた。その結果が「元ジャンプ漫画家志望」という無の肩書を、本人が自虐の意を込めずに自称することになったのではないか。

父親は家族である私の目から見ると、常に奇妙な言動をしている謎の人物だ。しかし家の外では、信じがたいことにまともな人間らしい。ちゃんと仕事ができる人らしいし、事実そこそこ出世した。ということは、おんねこの作者もまた、実際に会うとそれなりに普通なのではないか。もちろんおんねこの作者は、いたずらに漫画に没頭したために、まっとうな社会進出が遅かったと聞くし、大した地位を築いていなくとも不思議ではない。ただ我々が想像する姿ではないのではないか。おんねこの作者が描いた漫画の世界は確かに色んなところで狂っている。しかしそれは創作という世界においての狂いだ。創作をやったことがない人間が無理に漫画を描けば、いくらか「おんねこ」に似たものができあがるのではないか。普通の人はそこで才能がないと諦め、描き続けることはしないだろう。そこで止めなかったのがおんねこの作者だ。作者は本当は真面目なのかもしれない。私の父親もまた、勉強するとなると集中することができる。劇団にいた時は、仕事の傍ら台本を読み込み決してセリフを忘れなかったという。仕事でも何か提出物があるとなれば、後回しにせずすぐに片付けることができた。ではこの集中力が漫画といった芸術方面に傾けられたとすればどうだろう。とてもではないが、父親が意識的に独自の発想をもって表現できる未来が見えない。つまり私の父親は、漫画にとり憑かれなかったおんねこ作者ということかもしれない。おんねこ作者は偶然か必然か、漫画の道を選んだのだ。それだけ創作というものは人が憧れることで、物語には魔力があるということだ。私もまたその一人ということになる。
おんねこの作者は狂人ではないし、誰もが恐れる変人というほどでもない。我々が思うよりも普通の人なのだ。変なところがないとは言わないが、変人であることと創作ができることとは話が違う。普通の発想しかもたない人が、どういう訳でか創作という異常な道に踏み込んでしまったために、異形となって現れてしまった。それが真実なのではないか。ある意味、我々はおんねこの作者の才能を一番信じているのだ。

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