見出し画像

心を開けない僕らのための、"非"劇的な紀行劇『百万円と苦虫女』レビュー ネタバレ有

「どこに行っても所在が無くていっそ自分の事を知ってる人が一人もいない中で暮らしてみたいと思ったことはないですか。」

蒼井優演じる鈴子はつぶやくように尋ねる。一見説明的すぎるようにも見えるこのセリフは、鈴子がこの問いについてずっと考えていたという事を示しているし、百万円生活が鈴子にとってどういうものだったのかという事を観客に一気に明確にするシーンである。この問いに対し森山未來演じる亮平はつっかえながら「あ、、、ありますね。」と返す。この映画はこの問いに共感できる人の為の映画だと示されている。この問いを考えたことのある側の僕からのレビューを書いていこうとおもう。

紀行劇として描くサラッとした人間劇

最初から映画を振り返ってみる。絵画的な謎を含んだスリリングな雰囲気の蒼井優のカットから映画が始まる。この時点で鈴子の独特の雰囲気に観客は圧倒されつつも自分の中に共感する部分を見つけるのだ。

説明もなく時間は戻り、刑事告訴のいきさつが示される。説明はないが、鈴子の雰囲気から何となく事件以前なのだろうと読み取れる。このあたりの説明を省くところが作品全体の方向性を示す部分のように感じる。あくまで描いているのは紀行であって、人間関係の入り交じりは鈴子が尋ねた先での出来事に過ぎないのだ。劇っぽい演出をそぎ落とすことで鈴子の視点に立って物語を眺めることが出来ている。行く先々での出来事を描く紀行劇は、言うなれば自己肯定感の低い寅さんを見ているような、そんな清々しさが感じられる。

一転、家族のシーンはコミカルである。家族4人で手巻きずしを囲むシーンに、団欒とした空気はなく、むしろ家族という形のいびつささえ感じられる。この時鈴子が感じている居心地の悪さを的確に表現している。そして、この場面で強い言葉を鈴子に浴びせる弟の拓也は、この後に鈴子にとって大切な存在であることが次第に分かっていく。

百万円生活の先々で鈴子は3人の男と出会う。海辺の町ではチャラい男、山間の村では芯のある中年、地方都市では同い年の大学生。最終的には誰とも恋愛的なゴールにたどり着くことはないが、その理由はそれぞれ異なっている。チャラ男とは性格の違いが大きかった。鈴子にとって決して俺たちソウルメイトではないのである。ピエール瀧も決して分かり合えない人物として描かれる。村の会議では唯一鈴子の事を考えてくれる人であったが、そういった人でもどうしても心を開けない人というのは存在するという事実を示している。そして、問題は森山未來である。

結局僕らは苦虫人生

亮平は鈴子が自分の過去を打ち明けた唯一の人物である。鈴子は言いたくなかった前科の事をなんとなく打ち明けてしまい、それを受け入れた亮平と恋人となる。その後、亮平から打ち明けられない秘密を抱え、二人は最終的に別れてしまう訳だ。終盤の亮平がヒモだというミスリードは森山未來がかっこよすぎて形だけのものになってしまっていたが、その落胆は意表を突くラストシーンで裏切られる。運命的に見える物でも、結局裏切られるのが人生なのである。人と気楽に付き合えない僕たちの出会いが決して運命的な、”劇”的なものになるとは限らないのである。

重ね合わせた僕の経験

心理学用語に「ペルソナ」という言葉がある。内界に存在する精神と対比して、外的な人格の側面を指す言葉だ。ユングに言わせれば、人間は他人との繋がりの中でペルソナを固く装着し、内的な自分を守って居るのである。

僕は心を開くことが苦手だ。心を開く事はペルソナを外すという事だ。自分を守らなくても傷つけられないと相手を信用して、ペルソナを徐々に外していく作業の事だ。ペルソナとしての自分が支配的になっているととても気疲れする。もちろん社会生活を送る中でペルソナは必要な物だが、そのバランスをうまくとらなければならない。そして僕はペルソナを外すのがとても苦手だ。

僕はペルソナを二重に被っているのだと自分で分析している。一番外側が初対面の人に見せるペルソナ、その内に家族や友人に見せるペルソナだ。そしてさらにその内側には基本的に誰にも見せたくない人格が存在している。そのため、僕の中でのペルソナを外し心を開く作業には二種類存在している。

まず、初対面から友人関係を結ぶ際に外すペルソナだ。僕の大学生活ももう一年が経とうとしているが、今のところこれといった友人はいない。サークルもいくつか参加したが、いかんせん馴染む場所が見つかっていない。僕は決してコミュニケーション能力が足りない訳ではない。初対面の人とも標準的な会話をする事も出来るし、笑いの一つや二つは会話の中で軽く取ることが出来る。僕はそんな会話の中で心を開くことが出来ないのだ。ペルソナ越しでの会話で社会の中で存在しているにすぎないのだ。外側のペルソナを外す手掛かりは今のところつかめていないが、ペルソナ越しの会話に関しては着実に自分の技術が向上していると感じている。ペルソナを外すことにこだわらず、社会的にうまくやっていくことが解決の道筋なのかなと今のところ考えている。

二つめの、家族や友人向けに被っているペルソナについては、高校生の時に雪解けの事件があった。僕は同級生とバンドを組んでいたのだが、当時の僕は音楽に対するこだわりがあまりに強く、それでいて自己表現をする術を持ち合わせていなかったため、どうしてもバンドの練習に行きたくないと思っていた。そんな時に、家族と一緒に行く予定だったイベントとバンドの練習の日程が被っているという事をその前日に気付いたのだ。鬱屈とこだわりと反抗期を掛け合わせた結果、僕は当日布団から一歩も出ないという結論を導き出した。正直にダブルブッキングを話すことは、僕の中でペルソナを全て外すことだったのである。バンドメンバーからの信用は失ったし、親からもこっぴどく叱られた。その夜、僕は母親と話し合いをした。僕は涙を流しながらすべてを打ち明けたという記憶がある。その日から、僕はなるべく家族や友人には本当の事を話そうと決めた。どうしても言いたくないことを打ち明けてみる経験。カフェでの前科の告白は、僕にとっての親子会議であった。

鈴子みたいになりたい

鈴子に感情移入する形で物語が進んでいたが、最後のシーンでは僕は鈴子ではなく亮平に重ね合わせられる。そして、鈴子は理想の自分である。弟からの手紙をもらい、鈴子は次の街へ引っ越すことを決める。亮平は本当の事を打ち明けなければと思い立つが、最終的に伝えることはできない。その状況で、階段下からの鈴子の印象的な画の後に「来るわけないか。」とつぶやき笑顔で歩き出す鈴子である。苦虫女は苦虫女なりの笑顔で今日を行くのである。自分は探さなくてもここにあるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?