文化資本
子育てに忙しい私にとって、最近の子育ては本当に迷いが絶えません。毎日ChatGPTなどの生成系AIモデルの驚くべき進歩を目にすると、今の学校教育だけに頼ることはできないという思いがますます強くなります。
結局のところ、無責任に学校に頼りっぱなしにしていた部分が家庭に戻ってきたわけですが、それに加えて親自身が知らない知識や考え方を子どもに教えなければなりません。しかし、私はもはや「子どもに教える」という考え方自体が適切ではないとも思っています。
つまり、親は時間をかけて子どもと一緒に学ぶ姿勢を持つことが、将来の子育てには重要だと感じています。一方で、子どもと一緒に学ぶことは、私たち親世代が受けてきた教育とは全く異なるものだと感じることも多いかもしれません。子どもはゼロからスタートですが、大人は過去の知識にしがみつこうとする傾向があり、マイナスのスタートとも言えるかもしれません。
子どもと一緒に学び直し、それを楽しむことをモチベーションにする。私はこれ以外に方法がないと思っています。
子どもの将来の教育について調べていると、教育格差や体験格差などの社会的な問題に必ずぶつかります。
この格差が生じる原因は、かつては家庭や地域が果たしていた役割が次第に失われ、それがサービスとして提供され、そのサービスを受けるには費用がかかるようになり、経済的な理由による格差がより明確に現れるようになったためだと理解しています。そして、この格差が教育の水準の差に繋がり、また、教育水準が一つの評価基準とされるが故に、結果的に学歴や就職にも影響が出やすくなるというもの。
しかし、現在の教育水準の差を生み出している知識教育の大部分をAIが担うようになると、どうなるのでしょうか。簡単に言えば、これまで高額な授業料を支払って得ていた知識が、ほぼ無料に近いコストで得られる可能性が出てくるということです。
したがって、現在の経済的な要因で知識教育の格差が生じるという問題は、テクノロジーが一部解決してくれる可能性があります。
このようなことを書くと、「底辺層にはそんなの通じない」という意見が度々出されますが、それは確かにその通りでしょう。しかし、議論が発散するのでここではスルーします。
重要なのは、これまで多大な費用と労力を費やしてきた人々にとって、それが極めて低コストな選択肢となり、費用や労力を他の目的に使うことができるようになることです。
他の目的とは、将来的に価値の高まるものへの投資です。今までアドバンテージを得ていた知識の蓄積の価値は著しく低下していくため、それに代わる価値、すなわち実際の体験や経験の価値への投資が増えていくと考えられます。
体験や経験の価値は、社会学でいうところの文化資本です。文化資本は、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)によって提唱された概念であり、個人の社会的地位や経済的成功に影響を与える重要な要素とされています。
ブルデューは文化資本をさらに次の3つの形態で定義しました。
客体化された文化資本
書物や絵画、骨董品のように具体的な形で存在する文化的な資本
制度化された文化資本
学歴や資格、専門知識など、特定の社会的な機関や制度によって認定される文化的な資本
身体化された文化資本
礼儀作法、言語習得、習慣、美的な嗜好など、個人の身体的な特徴や能力に関連する文化的な資本
客体化された文化資本と制度化された文化資本は、大人になってからでも獲得できる可能性があります。一方で身体化された文化資本は子どもの頃から時間をかけて身につけるものとされています。
つまり、文化資本の視点で子育てを考えると、身体化された文化資本の形成が幼少期の子育てにおいて重要な要素となります。
かつては家庭や地域で身体化された文化資本が形成されていましたが、その機能が徐々に失われてきました。そして、現在、共働きや核家族が増加する中で、身体化された文化資本の重要性が高まっています。
家庭内で身体化された文化資本を形成するための充分な時間を確保できない場合、家庭外での経験を得るためにサービスを利用する必要が生じ、それに伴う経済的負担も増えていくことになるでしょう。
この状態が続くと、文化資本の格差、特に身体化された文化資本の格差は、さらに広がる恐れがあります。また、補完のための教育がサービス化され続けることで、都市部を中心に多様化し充実していき、リモートやサテライトで一時は縮まった教育の地域間格差の問題も再び浮き彫りになる恐れがあります。
結局のところ、AIの進歩による教育の将来はそれほど花畑ではなく、文化的再生産の流れは変わらず、むしろ、加速する。
まとめると、知識を得る、引き出すコストはAIが進歩することで急激に低下する一方で、その知識を活用、応用するために求められる身体化された文化資本の価値が上昇する。しかし、子どもたちを取り巻く家庭、学校、地域でこの形成を担う力が極度に弱体化しているため、外部サービスに依存する機会が多くなる。そうなると、経済的な格差の問題が再び浮上することになり、文化的再生産は継続する。
まず家庭において身体化された文化資本の形成のために何ができるのか、不足する部分は何で、補う手段はどのようなものがあるのか。悶々と今後の子育ての舵取りを考えながら、もう少しいいようにできないものかという思いになっています。
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