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二〇二四年三月




特急列車の窓辺で日光浴するiPhoneのまっくろな画面に、まぶしく晴れた空をゆく白い雲や、電線たちが映っている。この子もうれしいんじゃないかな。ふだん、いろんなものをここに煌々と映し出しているけれど、なにもしていない今の姿のほうが、ずっとうつくしい。



月頭は雪でも降るのかってくらい寒くて、キーボードをたたく指もかじかんでうまく動かない。そんなときにポストに落ちた、珈琲豆のたっぷり詰まったひと袋。なめらかなミルのてごたえ。こってり重低音な、深煎りのブラジル。

ひと月通して、よく雨に降られた。
細かい雨粒がびゅうびゅう、上空でしろくけむるように舞う。ホームにあがったとたん、霧吹きにあてられたみたいに顔中が水を含む。さっきまで傘さしてたの、ぜんぶだいなし。ちぇっ。
雨の日は電車で本を読みづらくて嫌だ。傘で片手がふさがると、とたんに色んなことが不自由になるし、いい加減な持ち方をされた傘の切っ先があちこちに飛び出していて、身を守るのに必死。
駅舎を出たとたんに、迎えるように降りだす雨。空は明るくて、ちょうどわたしが歩いているあいだだけ降るんだろうなって、そういう顔。ちぇっ。ちぇっ。ばかにしやがって。まけるもんか。

月の終わりには、もうコートいらずに。ダウンはもうクリーニングにだして、クローゼットの奥。あたたかそうな窓辺のひだまりで、外をじっと眺めているしろい、ふわふわの犬。目が合うと、ちょっと所在なげにそらす顔。あたたかいを通り越して、うだるように暑かったり。通り越さないでほしい。花粉、黄砂、暴れる風にいろんな何かがのっていて、途方もなく流れ出る鼻水をすすり、のみ、一日じゅう全身でくしゃみし続けて、何もしていなくてもぐったり疲れてしまう。頭がぼんやり、うまく回らない。


**


おニュウをたくさんお迎えした。

なにより嬉しかったのは、すてきなご縁で我が家にやってきた OLYMPUS の 「TRIP 35」。わたしがぽつりとこぼしたことばをきっかけに、拍子抜けするくらいあっという間に叶ってしまったちいさな夢。わたしのかわいい相棒。うれしくってもう、目に入るといちいち触ってしまうのだけれど、不器用なわたしはすぐにモノを壊すから、今回ばかりはぜったいそうはさせないぞと、慎重に慎重に。初めてフィルムをいれるときは早速ちょっとてこずって、ほんとうにヒヤヒヤした。

連れて歩くのにしっかりめのカメラストラップが要るなあとおもって調べていたら、スカーフ生地をつかったとっても綺麗な子たちを見つけてしまって、もう一目惚れ。目を見張るような値段にためらいながら、結局買ってしまった。あーあ。そんなことだからお金がないんだ。
でも、うれしいね。
いいんだ今月は、とっておきの口実があるから。

先月末に買ったブルゾンをおろす。わざとオーバーサイズ気味にしたら、袖がゆったりふっくらしてかわいい。わたしのうまれる前から生きてきたカメラに、あたらしいストラップを着せて歩く。〝はじめて〟を身に着けて出かけるときのぎこちなさ。ついつい、ガラスや窓にうつる自分の姿を確認してしまう、あのかんじ。浮かれてるね。

でもね、全体にはどこか煮詰まったような、窮屈で息苦しいような、どうにも晴れ切らないようなきもちはずっとあって、それは月が進むごとにどんどん重たくなってきて。だから、そんなおニュウの格好にリュックをしょって、ひとりで旅に出たりもした。家出。気分的にはそう、家出だったな。



***


やさしさとか、愛とか、共にあることとか、生活のこととか、自分の弱さや甘さとか、そんなことばかり考えていた気がする。いろいろ、そういうものに触れて、話して、考える機会も多かった。中途半端に暇だったから、余計なことを見たり考えたりしがちだったのかもしれない。でも、そうやって誠実な思考をへて編まれた他者のことばに接して、価値観ががんがん揺さぶられて、自分が鍛えられてゆく感覚もあった。ただ、わたしにはまだそのすべてをきちんと自分自身に還元する力がなくて、急に負荷がかかって頭の中が混乱しているような気も、する。


わたしってずっと、スネてるんだよな。

ある日ふいに、そんなことが思い浮かんで自分でびっくりした。
そう、拗ねてる。みんなと、世界と、うまく仲良くなれなくて、でもやっぱり構ってほしくて、いじけてる。みんなたのしそうで羨ましくて、輪に混ざりたくて、でもそれがうまく言葉や行動に示せなくて、だからわかってもらえなくて。
それで、スネてる。
友だちといても、家族に対しても、終わらなかった昔の初恋のさなかでも、会社にいてすら、そうだ。ずっと拗ねて、いじけているわたしが、うまくいくはずだったものもみんなみんな、おかしくしてしまっている。
恥ずかしいや!

でもねこれ、ほんとうに今まで、自分できちんと言葉にして確認できてなかったことだったんだ。頭の隅ではなんとなくわかっていたと思う。でも恥ずかしくて、情けなくて、見たくなくて、正視できないままに気がつけばこんなに、歳をとってしまった。学生時代からわたしを知ってる人からすれば何を今さら、ってくらい自明なことだったろうと、そう、わかっていた。でも、まっすぐ向き合う胆力がなかった。だからこうして自分で、多少の痛みは感じながらも言葉にできたことは、物凄い進歩なんじゃないかって思う。まだ、傷のじゅくじゅく具合がきつくて、すぐに絆創膏でふたをしちゃうくらいの弱さだけどさ。


それにわたし未だに、だれかに助けてもらおうって頭のどこかで思ってるみたい。こっちはね、結構ショック。世界に、他人に期待するな! お前の脚で立ち上がって歩け! 欲しがってばかりいないでその手を伸ばせ! 貰ってばかりいないでちょっとはなにか贈ってみせろ! って、あんなに言い聞かせてきたはずなのにさ。こびりついたものって、腐りきった性根って、やっぱりそんな簡単に抜けないし直らない。というか、ほんとうに根っこがそういうふうにできているのだとしたら、変わることなんかないのかもしれないね。根っこだもん。でも、そうだとしたら、その根っこで立ちながらも、それを引き受けたうえで見たい景色をみるために、わたしはどうすべきなんだろう。



いま辛うじてわかることは、わたしには「人」が、信頼できる相手が、あなたが、必要なんだなってこと。結局、だれかの存在や、そこからにじみ出るものや、放たれる言葉とか、そのひとそのものにまっすぐ、目を合わせて向き合っていくことでしか、わたしはわたしをアップデートしてゆくことはできない。数えきれないほど失敗してきたし、現在進行形でし続けているけれど、くじけないで、それをやめないこと。

わたしには今、家族とは別に「この人はわたしが死ぬまでずっと、わたしの人生のどこかに居続けてほしい」っておもっている人がいるけれど、そのためにものすごく色々考えるようになった。そこで気づくことは本当にたくさんあって、自分が何を間違ってきたのかも分かりやすくなってきた。そしてそういう前提で自分の在り方を考えると、今までよりは我慢強く、自分をしっかり保ちながら、誠実に誠実にって、いられる気がしている。「続ける」。いちばん難しいこと。こんな感じは今まで生きていて初めてかもしれなくて、うっかり落っことさないようにしたいし、これまでも自分の周りにいてくれた大切な人たちにも、これから出会うすべての人たちにも、「この感じ」を広げていきたいって心からそう、おもう。

こういう気持ちを貰ったその人にも、「この感じ」、御礼といっしょにどうにかお伝えしたいのだけれど、うん、なかなか難しい。どうしても大げさになってしまうし、たぶん今のわたしがどうことばを尽くしても、届くことはなさそうだし。筋力が足りなくて、ボールが届かない。そもそも投げ方が覚束なくて、相手にまっすぐ投げられていない。そんな感じがする。


**


出来ないことばっかり。

及ばないことばっかりだ。

でもゆっくりでいいから、ひとつひとつ、だけどより具体的に、手を動かしていって、それを地道に積み重ねていった果てに、何か違う景色が見られるようになればいいなと思う。たとえば35歳になった時に、そういうものに今よりも一歩、近づいていられたらいい。それくらいの気持ちでいたい。
だからそう、届かない遠くを見てへこんでいないで、目の前のこと、生活をしっかりやる。目の前の人たちと、しっかり向き合っていく。そしてちょっとずつ、「よくしていく」。後悔だけは、絶対にしたくない。一所懸命に、アクションしないで放るのではなくて、やってみること。わかりあえない、嫌われるかも、そんなふうに最初から諦めてしまわないで、傷つく痛みも覚悟しながら、関わってみる。思いを伝えようとしてみる。相手を知ろうと手を尽くし、自分も同時に開いてゆく。できなくったって、拗ねていじけるんじゃなくて、やり続けてみること。ひとつひとつ。

後悔はもうしないからね!



そんなふうにぼんやり、考えていた。
諏訪湖のほとりの温泉宿でひとり、もくもくと湯けむりに包まれて、夕陽をじっと見つめながら。
そのまま一時間以上もずっと、そうしていた。


かくしてお財布は流血の大惨事だった一か月。
でもいいや。
とっておきの口実をふりかざして、全部ヨシにしちゃう。

そんなふうにまたひとつ、歳を重ねた、わたしの3月。





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