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【日々】フェイクファーの夜|二〇二三年十月




二〇二三年十月十三日

なんとなく書けない日がつづく。
心動いても書き残す気持ちにならない。
そもそもほとんど動かないし。
日々、最低限のことしかできない。

ギター弾けたらいいだろうなあとふと、おもった。きのうInstagramでみた浮さんみたいに、風に吹かれながら、どこでも自由にすきなものが歌えたらどんなに良いだろう。武蔵境から乗ってきたギターケースをかかえた女の子の、口元に浮かぶやわらかい微笑が、うつくしかった。

金曜日の夜、浮かれた宴会帰りに紛れて歩くのがほんとうに、きらい。電車を降りると、冷たい風のなかに濃い金木犀のかおりがする。久しぶりにこうしてこの日を書き残すことができて、すこし安心する。




二〇二三年十月十五日

板のうえに載ったかまぼこはかわいい。




二〇二三年十月十七日

女のひとがカブを飛ばして走り去ってゆく。うしろに積んだコンテナからは、きれいな薄ピンクの花束がのぞいている。




二〇二三年十月十八日

このところ、ただ生きているだけで精一杯。いろんなものが散らかってゆく。遠くなる。会社のせいかとおもっていたけれど、自分はどこでどんな生き方をしても結局こうなんじゃないかと、諦めのような気持ちが起こる。




二〇二三年十月二十日

ほんとうに苦しいときには家に帰っても慰めにはならない。むしろ、より傷が増えていく。ちいさいけれど、確実に。それは家族のせいではもちろんない。だれも悪くない。でもやっぱり、ほんとうに安心できる場所のないことが、ひどく苦しい。布団の中でぎゅっと情けなく丸まって、そのドロドロを押し殺す。




二〇二三年十月二十一日

カメラのフィルムケースの、あの白く濁った小さな筒を二十年ぶりくらいに手にして感激する。むかし父の部屋にたくさんおいてあったのを、思い出す。きょうはなんだかいける気がして、深夜までお酒を片手に編集作業を進める。なほさんのラジオを聴く。うなずきながら聴く。さいきん好きになったHomecomingsの、まだ聴いていないアルバムをおすすめしてもらったから、さっそく聴いてみる。もちろん良かった。秋晴れの日にぴったりだ。わたしは日本語で歌う、いまの畳野さんがすき。




二〇二三年十月二十三日

澤野久雄『旅情密集』を読み終える。奥付に貼られた著者検印と、「野間省一」の文字に内心オオと感嘆する。尾道の「弐拾dB」で魔がさしたように手に取ったこの一冊には歴史的な重みがたっぷりと綴じられている。古本屋にいっても、こういう本と縁を結べたことは今までなかった。置いてあっても手にとれていないだけなのだろうけれど、そんなわたしにこの一冊を引き合わせてくれたのだから、それはやっぱり藤井さんの手腕なのだとおもう。また尾道に行きたい。




二〇二三年十月二十五日

点滅社さんの新刊のおしらせをみてビリリときた。外界からの情報に心が動いたのは久しぶりな気がする。『鬱の本』がはるか上方の明るい水面におちて、ぼんやり光りながらこちらまでおりてくるのが、暗く深い鬱の水底から、みえている。そんな感じ。四方八方にイライラしながら仕事をして、会社を出た途端に暴風雨にぐしゃぐしゃにされ、散々な気持ちだったけれどそれも吹き飛んだ。屋良さんはいつもこうやってわたしたちを照らしてくれる。最寄駅からの家路、月が明るくわたしをみている。




二〇二三年十月二十九日

夜、おさけをのみつつぼうっとネットの海を眺めていたら、ふいに頭のなかでスピッツ『フェイクファー』のイントロが流れはじめる。さいきん聴いてなかったし、ずっと頭のなかでループしてとまらないから、久しぶりにかけてみる。沁み渡る。あんまりよかったから、Spotifyのリンクを無言でネットの海原に流す。

そろそろ寝ようかとおもったところで、さっきの『フェイクファー』にコメントがついた。ついさっきまで、聴いてたんだって。つまり、たぶんほとんど同時に、同じ曲を、遠く離れた街で聴いていたってことだ。こんなこと、あるんだ。おんなじ夜のむこうで、おたがいの声も聞こえないのに綺麗にできたユニゾン。そんな感じ。さっきとつぜん頭のなかでループし始めたのはきっと、なにかの拍子にふたりの周波数がぴったり合ってしまったからなんだろう。なんだか心強くて、安心する。もう一度、iTunesから同じ曲をチョイスする。フェイクファーの夜。




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