見出し画像

【日々】ちょっとずつ澱んでいく|二〇二三年二月



二〇二三年二月二〇日

 夜明けに小走り。学生のころの、合宿の朝を思い出すにおい。国分寺で中学以来の旧友Eと落ち合って、カーシェアで確保していたクルマに乗りこむ。新小平の高倉町珈琲に入ったら、いつものようにモーニングをとる。

 最近引っ越してふたりぐらしを始めたかれは、「自分で作った方が早い」とほとんどの家具をDIYしているらしい。その軽やかさをあらためて見直して、まぶしいやらおのれが情けないやら。圧倒的敗北感。自分も思想だけは似たようなことをかんがえるようになったけれど、結局何にもしていない。ただやればいいだけだけれど、彼我にはとてつもなく大きな断絶があって、だれにも飛び越えられるものではない気がしている。かれはいつもそうだった。ないものはつくるし、できないことは学んですぐに身につける。無茶はしないけれど、無意味に守らない。押すところ引くところを間違えない。fuzkueの阿久津さんがtitle辻山さんを評して言った「運動神経の良さ」、これのことなんじゃないかなあ。鍛えられないかなあ……と、こんなふうに思っちゃってる時点でだめだな。

 この日は秩父までドライヴ。行きつけの温泉でじっくり湯治して、すこし市街をあるいて帰ってきた。クルマを降りたら、これまたお馴染みの国分寺「パナス」でカレー。本来は一月頭に予定していたものをわたしが飲みつぶれてドタキャンした経緯があったので、お詫びにディナー代を払う。さいしょから最後まで、お決まりの過ごし方。
 でも、ずっと地元でいっしょに遊んできたかれが帰るのは都外の新居だし、ふたりで続けてきたWEBサイトも再開のめどは立っていない。わたしの出身小学校はかれの出身校と将来合併するかもしれず、ふたりで入ったことのある銭湯はもう建物そのものがなくなったそうだ。やっぱり変わってゆく。だんだん遠くなっていくんだなとおもう。ことし、ふたたびかれと会うことはあるだろうか。



二〇二三年二月二十一日

 きのうEと会って話したことで、自分の本来の無能を思い出してしまったみたい。魔法が解けたように、自身の欠点ばかりが目につく。久しぶりだなこの感覚。一年前くらいまでは、毎日がこんな感じだった。自分自身に対して感情的になることほど救いようのないこともない。なにも解決しない。ないものはないのだから、今あるのもので勝負していくしかない。

 読みさしていた『ケヤキブンガク』創刊号をパラパラとみていて、フルタジュンの"日常からシームレスに移行する物語"という視点が気になった。そのまま別途掲載したという氏作・演出の『寂しい時だけでいいから』の本を読むとこれがすごい。作中ではおこることも生活と物語がシームレスで行き来するが、作品の引力で自分も通勤電車の中という日常から、シームレスに物語の世界へ溶け込んでゆくような気持ちになる。駅に着き、会社へ向かう段になってもなお、なかなか現実世界に戻ることができないくらいに。



二〇二三年二月二十四日

 秋葉原の駅前に残る、ちいさな宴の跡。

 きょうは会社へ向かう前に駅向こうの図書館に足を伸ばして、福永武彦『草の花』を借りて読み始める。父の、大切な一冊だという。



二〇二三年二月二十五日

 きょうも出かけるギリギリまでベッドから出られない。帰ったらすぐに布団に入るようにしているのに、朝きちんと目が覚めないから色んなことが手つかずでほこりを被りはじめている。いやな無力感がある。

 仕事の休憩時間に、気になっていた「書肆スーベニア」をのぞく。これがよかった。古本は読みたかった名作が豊かに並んでいるし、新刊の棚がまた自分好みのど真ん中だ。なかなか店頭でお目にかかれなかった夏葉社『レンブラントの帽子』や『昔日の客』、オオヤミノルに庄野雄治、若菜晃子、奥山淳志、それに牟田さんの『文にあたる』も……いたれりつくせり。財布の口をとじるのに必死。安めの古本から、志賀直哉とみのわようすけの短篇集を選んでなんとか千円以内におさめた。みのわさんの本は初めてみたけれど、好奇心がおさえられずつい。なんだろう、はじめての感覚がする本だ。

 店を出てスマートフォンをひらくと、行きたかったコンサートのチケット抽選に二連敗したことを知らせるメール。一瞥してすぐにゴミ箱フォルダに葬る。なかったことにする。そんなものはなかった。わたしの人生には今後登場しないので、存在しなかったことと同義。チョコとコーヒーを買う。

 オフィスに戻って、みのわさんの本をすこし読んでみる。意味はとれるのに理解できない、混沌とした混乱が淡々と脳を揺さぶってくる。パラパラとページをめくっているとどこかで一瞬、朱い栞紐 スピンがみえたような気がしたが、なんど繰り直してもみつからない。綴じのところをみるとスピンがついている様子はなかったので、どうやら幻だったらしい。



二〇二三年二月二十六日

 駅のホームへあがる階段。わたしのすこし前でステップをあがってゆく女の子のワイドパンツには、とりどりの花が咲いている。シックな黒に、あか、きいろ、ピンク、茎と葉のみどり。すそが風になびいて、そこだけちいさな花畑。



二〇二三年二月二十七日

 外に出ると、気怠げなあたたかさが全身を撫でる。住宅街のまんなかに寂しげに広がっている畑と、いま歩いている小道とをわずかに隔てているさびた柵のうえに、みなれない、すこし大ぶりなからだをした小鳥がいる。わたしが近づくと、ちょっとはなれたところに留まる。また距離が縮まると、ふたたびすこし羽ばたいて離れる。でも、飛び去りはしない。どこに誘おうというのだろう。からだの特徴からすると、どうやらモズのようだ。百舌鳥。かれはわたしがその生産緑地のわきを通り過ぎるまで、いっしょについてきた。

 列車のまどからあついくらいの陽射しが、ひらいた文庫本の古く焼けたからだを照らす。木下牧子『春に』が頭のなかで鳴る。毎年のことだけれど、もうそんな時期か。あのうたには、こころを焼くうつくしさがある。いまのわたしの生産労働は十三時からはじまるが、そういえばうたをうたっていたあのころもたいてい、十三時をめざして出かけていたのだった。



二〇二三年二月二十八日

 洗面の水がなかなか流れない。溜まった汚れが澱んで、詰まって、そこへ新たに流れ込もうとするにごったものたちが中々通れずにうずを巻いている。吸盤でくっつくタイプのうがいコップ立ては吸いつく部分がばかになってしまって、コップの重みを支えられず倒れてしまう。なのに習慣でつい立てようとして、ひっくり返す。三回くらいやった。このところのわたしの生活がこの洗面所の風景にはよくあらわれている。リビングには洗濯物の山。廊下は埃でいっぱい。整理のついていないメモがiPhoneにぎっしり。きょうはとうとう溜めはじめていた日記二日分を、なんとか間に合わせた。この前ためしに買ってみた無印良品のペンは、悪くないけれどちょっとペン先が太すぎて書きづらい。何がそんなに苦しいのかよくわからないけれど、なんだかしんどい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?